2010年6月2日水曜日
非対称…(再掲)
招かざる客…
ほとんど他人に知られていないエントリーなので、投稿コメントなど気にしていなかったら、昨年の秋のエントリーに200件を越えるコメントがあってびっくり…。そこで覗いてみると…何のことはない、自動的に書き込まれている怪しいアドレスに誘導するためのゴミ・コメント。いちいち削除するのも面倒で、エントリーごと削除した。それほど残すことにこだわる必要もない程度のものなので。まさかそれが目的で…なんてことはないのだが、ここのブログ管理の仕様はそんな時、面倒だった。一覧で一気に削除対象を選択できるといいのだけど。まあ、不便を感じたら他所に引っ越せばいいだけのことだしね。
2010年5月30日日曜日
再開
しばらくブログにコメントする余裕がなくて、ほったらかしになってしまった。また、少しくらい、更新してみようと思う。
先週で先日、鳩山首相が沖縄に関するコメントを発表した。また、謝罪のオンパレードのコメントであった。色々、論評されている。確かに「格好悪い」スタイルの人だと思う。誠実である、と感じてもらえることを優先してあのようなスタイルを採っているのだろうな…。
ただ、どのようにことばを選んだところで、鳩山首相が選択肢を狭めたわけではないだろう。もともとほとんど選択肢…みんなが納得できる妙案があったわけでは…たぶん…ない。誰がやっても同じ結論になっただろうし、そうでないとすると、日米安保条約の破棄だの、日本再軍備だのと、もっと国を割って大論争が生じるような形の対応策をとったことになったのではないか、という気がする。正直、それ以外思い浮かばないのだ。外交・軍事関係の専門家だと、他の方法を持っているんだろうか。少なくとも沖縄から○○へ△△を移動させ、□□を××して…という風に具体的な代替案を示し、そうすればすべて解決できる、とした発言を見た記憶がない。あとは、どうやって地元の住民を納得=我慢させるか、という詐欺師のテクニックの巧拙を競っているような気がする。
少なくとも自分たちの都道府県や市町村に受け入れようとしないで…国外へ、と考えているともいえるが…NIMBYなまま、マスコミがマイクを向けると得意になってステレオタイプなコメントで首相を非難する風潮も見ていて恥ずかしくなると同時に、ため息が出る気分だな。自分が気が付かないように上の立場の人が何でもやっていくれるのを理想とする、パターナリズムにどっぷり浸かっている意識が感じられて。
2009年9月27日日曜日
やっと Ubuntu 9.04
そうすると記事の中に「Google ブラウザ『Chrome』の Linux版を Ubuntu」に導入する方法があったので、勉強を兼ねてやってみた。
ところが何度 sudo apt-get install をやってみても…ネットで調べた sudo atptitude ~ をやってもインストールできない。パッケージはダウンロードできているようなのに??という感じ。何度もネットでググったらそのうち Ubuntu の https://forums.ubuntulinux.jp/viewtopic.php?pid=39716 を見つけ、そこを読むと、https://forums.ubuntulinux.jp/viewtopic.php?pid=39716 から何やらダウンロードできるとの話。とりあえず Ubuntu 内からアクセスして Dev channel (for 32-bit systems): google-chrome-unstable_current_i386.deb をデスクトップにダウンロード 。それを右クリックしてインストールを選択すると無事作業が終了。
Windows版と変わらない Google Chrome がインストールされた。正確には分からないが、雑誌やネットで「apt-get」してインストールするパッケージは、削除されて新しいものに更新されていたのではないだろうか。そのため端末から色々操作してももうサイトからパッケージがなくなっているので作業が完了しなかったのだろう。
おかげで色々とコマンドを打ち込んで、久しぶりにCUIベースの操作を経験できた。少し操作体系が分かった気がする。ほんの少しだけど…(笑)。
2009年8月26日水曜日
七夕
刻々と総選挙が近づいている。いろいろと報道が現実味を帯びてきている。自分の人生のうちに、冷戦の崩壊を目の当たりにし、ソ連の消滅に驚愕し、自民党の凋落を見るなんてことがあるとは想像もできなかった。1993年の政権交代でも、衆議院第1党は保っていたわけだから、政権与党から野党に転落したとしてもあくまで日本一の存在であった。それが変わりそう…。どんな地殻変動が起こるだろうね。個人的には自民党も民主党も、昔のイギリスのように、それぞれ二分されて各々合体し、メンバーを組み替えた二大政党制に向かう気がするのだが。
2009年8月22日土曜日
徒然なるままに~
もうすぐ選挙だが、本当に国会の図式が変わりそう。その昔、ベルリンの壁が崩れた時、歴史の大きな転換点である事は分かったものの、それが日本の現実にどのように結びつくのか、まったく想像できなかった。それが3年ほどして細川政権が出来た時、日本の政治構造も冷戦体制を前提に成り立っていたのかと、改めて実感したものだった。必ずしも、冷戦崩壊が主たる原因だったわけでないとしても。
多分、今の変化の底流にあるのは、キャッチアップ型の経済成長から名実共に脱却する構造転換なのだろうと思う。専門家はもっと色々な観点から論じているのだろうけど…素人としての視点から感じていることをまとめるならば。実家の父親と話していても、日本の経済成長を主導したとの認識から官僚への暗黙の信頼、海外との自由貿易の拡大による農業の崩壊を阻止すべく交渉打破、公共事業による地域振興志向、など、昨今、経済論壇などで論じられるテーマからすれば守旧型に分類される論調、目白押しの印象を受ける。経済学的な処方箋の論議は鼻で笑われるのがオチって感じで(笑)。それも仕方ないとは思うんだけどね。いかんせん、それら論議を根拠付ける経済学その他の基礎概念を知らないわけだから。もっぱら経験的な実利中心の発想こそ地に足のついた議論だという信念だしね。どうも学生運動の頃の学生たちの理想論と同じくらい地に足のつかない議論だと感じている節がある。あまりにも抽象度の高い議論を、アカデミックなトレーニングなしに理解できるほうが困難なわけで、当然な反応とも言える。いいかえれば、そのような知識を伝えることのないマスコミの報道に課題を感じる。いわば普通に生活しているおじさんやおばさんたちも、少しはその時代の知的ツールを知らしめる姿勢を持っていもいいのではないだろうか。何でも庶民「「感情」」で理解でき、共感できる政治や経済のあり方が望ましい訳でもないだろうに。
2009年1月11日日曜日
パソコン通信の亡霊
知っているのはNIFTY-Serveとごくごくローカルな草の根BBSだけだが、時として激しく、また口汚く罵倒し合うような応酬を目にする機会が結構あったものだった。しかし、Internetの時代になっていわばお仕着せの狭い場所で口角泡とばすかの如く激論を闘わす位なら、自分でさっさとホームページなり何なり立ち上げて、気に入った議論を繰り広げることができるようになったことから、そんな文化は死滅したのかと思っていた。どうやら自分がそのようなWEBをのぞく機会がなかっただけだったのかもしれない。最近、ブログの炎上なんて話題がニュースになることがあったが、これも同じような応酬が閉じられた内輪だけのやりとりだけに止まらず、部外者にまで知られただけのことで、他の意見を認めず、非難・罵倒するという営み自体は常に存在し続けていたってことなわけだろう。
年を取った分、多少、自分なりの考えに自信を持つようになっているが、このようなやりとりを見ていると、自分の意見を他人に納得してもらうってことはほとんど期待できないんだなって気分になる。それぞれに自分の経験・知見をベースに物事を判断しているわけで…中には非論理的な言説も目にするが、途中の論旨が飛んでいるだけで、丁寧に論述するとそれなりに説得力のある論議だったりするケースもあるので、誰であっても、ちょっとやそっとでは他人の軍門に下るってことはないということなのだと思う。まあ、それ相応に各自「リアリティー」を持って発言しているわけで、当然ではある。
意見の対立が激しく議論が紛糾しても、一般に「話せば分かる」と取りなすことが大人の対応とされる。また、多分、日本の社会ではそのような姿勢を保つことが会社・役所等、組織維持の観点からも要請されるように思われる…そのような力学が意識的か無意識的かは分からないが。ただ、話せば分かるということは相互に他の存在を許容しうる、ということなのだと思うのだが、許容できないという考えが存在した場合、成り立たない。「話せば分かる」というメッセージ自体がお題目、まあ一種の緩和剤としての効果を期待するに過ぎなく、それ自体実体のある言説ではないのだろう。もっともこの言葉を使う人が、どこまでの効果を期待して用いるかとこの言葉自体の効力の強弱は直接関係ないが…つまり本人は大まじめだったりするってことは決して少なくない…このこと自体も、何らおかしなことではないが無駄な労力に終わる可能性がそれなりにある…でも、この可能性の範囲もかなり幅が広いだろうからまあ何にもハッキリしたことは言えない訳なんだが。
(…どうも途中で弁解気味に脱線してしまうので話が進まない…(笑))
人がこの手の議論を行う時、論理的であることが要請される。そしてその論理は理性の力で実現される、ということだと思う。言い換えれば、他人の議論に同意できないというのは各自の持つ「理性」が異なっているわけで、本来理性はひとつだとすれば、誰かの理性が間違っているか、みんなの理性が間違っているか、どちらかのはず。でもみんな自分の言説を正当化するリアリティーを心の内に持つが故に、自分が正しく、他が間違っていると、(多分無意識のうちに)考えているのだろう。しかし、最近目にする進化心理学や行動経済学などの説明では、人間の理性ってかなり当てにならない代物らしい。…だからといって全面的に無意味だって全否定しても意味がないが、全部正しいって前提もそれと同じくらいピント外れってことだろう。そうなると、不十分ながらもたくさんの意見が合わさって、実勢において最も有力なもの、もしくは合成物が差し当たり妥当だってことにするのがベターな選択ということではないだろうか。これを政治的に表現すれば民主主義なんだろうし、経済学的に表現すれば市場メカニズムってことだろうか。ただし、民主主義や市場メカニズムが望ましいとする意味づけは一般的な理解からすると変質しているのかも知れない。何故かというと、一般的に、周知を集めると最も正しい結果が得られるという形で、それらの仕組みを正当化するような学校教育を受けて来ている気がするから…。
同じことばでも、時代が変わればその意味づけが変わることがあるんだと思う。マスメディアやインターネットで大量に漂流するキー・タームも、その意味する内容に対する了解を問い直していくことができればいいのに…と思うのであった。