2009年1月11日日曜日

パソコン通信の亡霊

 あるSNSのコミュニティに参加していて最近感じているのが…中に昔のパソコン通信に似たやりとりが繰り広げられているところがあるということ。その中でも特に社会的な価値判断の伴う場では、リアルタイムに近い意見の応酬があり、時として非難合戦のような状況を呈する場合もあるが、その時のことばが、その昔、パソコン通信のフォーラム内で繰り広げられていた展開をそっくりなぞるかのようなものも少なくなくて、タイムスリップしたような不思議な気持ちに襲われる。

 知っているのはNIFTY-Serveとごくごくローカルな草の根BBSだけだが、時として激しく、また口汚く罵倒し合うような応酬を目にする機会が結構あったものだった。しかし、Internetの時代になっていわばお仕着せの狭い場所で口角泡とばすかの如く激論を闘わす位なら、自分でさっさとホームページなり何なり立ち上げて、気に入った議論を繰り広げることができるようになったことから、そんな文化は死滅したのかと思っていた。どうやら自分がそのようなWEBをのぞく機会がなかっただけだったのかもしれない。最近、ブログの炎上なんて話題がニュースになることがあったが、これも同じような応酬が閉じられた内輪だけのやりとりだけに止まらず、部外者にまで知られただけのことで、他の意見を認めず、非難・罵倒するという営み自体は常に存在し続けていたってことなわけだろう。

 年を取った分、多少、自分なりの考えに自信を持つようになっているが、このようなやりとりを見ていると、自分の意見を他人に納得してもらうってことはほとんど期待できないんだなって気分になる。それぞれに自分の経験・知見をベースに物事を判断しているわけで…中には非論理的な言説も目にするが、途中の論旨が飛んでいるだけで、丁寧に論述するとそれなりに説得力のある論議だったりするケースもあるので、誰であっても、ちょっとやそっとでは他人の軍門に下るってことはないということなのだと思う。まあ、それ相応に各自「リアリティー」を持って発言しているわけで、当然ではある。

 意見の対立が激しく議論が紛糾しても、一般に「話せば分かる」と取りなすことが大人の対応とされる。また、多分、日本の社会ではそのような姿勢を保つことが会社・役所等、組織維持の観点からも要請されるように思われる…そのような力学が意識的か無意識的かは分からないが。ただ、話せば分かるということは相互に他の存在を許容しうる、ということなのだと思うのだが、許容できないという考えが存在した場合、成り立たない。「話せば分かる」というメッセージ自体がお題目、まあ一種の緩和剤としての効果を期待するに過ぎなく、それ自体実体のある言説ではないのだろう。もっともこの言葉を使う人が、どこまでの効果を期待して用いるかとこの言葉自体の効力の強弱は直接関係ないが…つまり本人は大まじめだったりするってことは決して少なくない…このこと自体も、何らおかしなことではないが無駄な労力に終わる可能性がそれなりにある…でも、この可能性の範囲もかなり幅が広いだろうからまあ何にもハッキリしたことは言えない訳なんだが。

 (…どうも途中で弁解気味に脱線してしまうので話が進まない…(笑))

 人がこの手の議論を行う時、論理的であることが要請される。そしてその論理は理性の力で実現される、ということだと思う。言い換えれば、他人の議論に同意できないというのは各自の持つ「理性」が異なっているわけで、本来理性はひとつだとすれば、誰かの理性が間違っているか、みんなの理性が間違っているか、どちらかのはず。でもみんな自分の言説を正当化するリアリティーを心の内に持つが故に、自分が正しく、他が間違っていると、(多分無意識のうちに)考えているのだろう。しかし、最近目にする進化心理学や行動経済学などの説明では、人間の理性ってかなり当てにならない代物らしい。…だからといって全面的に無意味だって全否定しても意味がないが、全部正しいって前提もそれと同じくらいピント外れってことだろう。そうなると、不十分ながらもたくさんの意見が合わさって、実勢において最も有力なもの、もしくは合成物が差し当たり妥当だってことにするのがベターな選択ということではないだろうか。これを政治的に表現すれば民主主義なんだろうし、経済学的に表現すれば市場メカニズムってことだろうか。ただし、民主主義や市場メカニズムが望ましいとする意味づけは一般的な理解からすると変質しているのかも知れない。何故かというと、一般的に、周知を集めると最も正しい結果が得られるという形で、それらの仕組みを正当化するような学校教育を受けて来ている気がするから…。

 同じことばでも、時代が変わればその意味づけが変わることがあるんだと思う。マスメディアやインターネットで大量に漂流するキー・タームも、その意味する内容に対する了解を問い直していくことができればいいのに…と思うのであった。