2010年6月27日日曜日

馴れ合い

 大相撲がまた物議を醸している様子。朝昇龍で失態をずいぶん指摘されたけど、それ以上に深刻なレベルにあると思われる。ただ、新聞やテレビがさも驚いたかのように…いわば自分たちも知りませんでした、というスタイルで報道しているが、ずっと力士たちの生活に密着して話を聞いているスポーツ記者たちが知らなかったわけがない。知っていても、そんなことを報道したり、止めるように意見しても、飯の種を無くすだけのことなので見て見ぬ振りをしていたんだろう、と想像される。

 小沢一郎と鳩山由紀夫が辞任して、小沢一郎は、反対派によって失脚させられたかのように報道されているが、ここもシナリオ通りの話が進んでいるだけのような気がして仕様がない。小沢一郎も、いかにも権力の主流から外されている風を装っているが、実態はそれほど以前と違っていないのではないだろうか。もともと正式な地位を持っているから振るっていたという実権じゃなかったように思うので…つまり、幹事長や党代表でなくても、それ以上に恐れられていたようだから、今と変わらないんじゃないか、ということ。

 他にもあるけど、マスコミが描くストーリーは、どうも状況迎合的というか、余白の埋め草目的というか、毒にも薬にもならないような駄文を書き連ねて、スペースと時間を満たしているだけ、という気がする。中身はどうとでも言い逃れできるような、観測文ばかりとか…。

 結局、情報ソースを持たない下々は、何も分からないんだな~などとちょっと寂しくなる。


2010年6月20日日曜日

官房機密費

 官房機密費の話がちらちら目に入る。少し前から話題になってきていた。かなりの(…ここは正確ではないが…)ジャーナリスト・学者・評論家などが、その恩恵を受けてきていた、という話。いわばソフトな言論統制ということだと思う。もっとも、これも情報統制や情報操作の表れなのだとすると、もうホント一般人は政治の世界は分からないことになるが、どっちであったとしても「藪の中」であることは違いない、と思っている。


 真実は現場にある、のだろうけど、その真実は、現場に遭遇した人にとっても各々異なっていることがありうるわけで、週刊誌などで好まれる陰謀説も含め、ストーリーは何種類も存在するんだ思うようになってきた。ただ、それでも自分なりに納得しやすいストーリーを探したいのだけど、大手のマスメディアの論調は、どれも納得のいかないものが多い。新聞など、必ずといっていいほど何らかの評価・展望が最後に付け加わるのだけど、根拠が不明な場合が少なくない。それは、読み手からすると、直前までの記述からいきなり飛躍するようにすら感じることも少なくないということ。もしかしたら、現場にいる人たちだけが感じている追加情報があるのかもしれない(…多分、あるんだろうとは思っている…)が、奥歯に物が挟まったような感じで明らかにせず、そこから飛躍して紋切り型にコメントをくっつけて、一定方向に意識を向けさせるような印象付けだけするような記述は、どうも気に入らないんだな。


 もし「書けない事がある」というのであれば、ジャーナリズムのアポトーシスということかな。それが何故書けないのか、が問題。官房機密費の話なんかが出てくると、「書けなかい」ではなく(都合の悪いことは)「書かない」だったんじゃないか、と勘繰られてしまう。どこかに気兼ねして書けない事があるのは、ありうる。しかし、「どこ」への配慮だったのか、ということだね。


 しかし、今、マスメディアのビジネスが急速に破綻に近づいていると言われ始めている。そうなった時、もう気を使っている余裕はない、といって書き始めることがあると、もしかしたらマスメディアに対するニーズが復活するのかもしれない。新しい魅力を持ったことで。…でも、こちらのシナリオ、可能性は高くない気がする。


2010年6月8日火曜日

Swing Journal 休刊


 Jazz の老舗誌、Swing Jornal が休刊になるとか…。詳しくは報道の内容を知らないので、個人的な印象だけど、高齢な人の比率が極端に高い雑誌という印象を持っていた。記事の方向が、何せ「激しい」ことを称揚するような印象で、寛ぐために音楽を聴くって姿勢に否定的な雰囲気を感じたものだ。単なる勘繰りだろうけど、安保だの学生運動だのを青春時代に語った人たちに共通する雰囲気という感じで。そこから、雑誌が休刊すると聞き、衰退のシナリオも当然と感じた。Jazzの情報の得られる数少ない雑誌ということで、勤め始めても毎月のように購入していたものだが、雑誌で推薦されるアルバムを聞いても、全然楽しくない、という経験が続くうちに買わなくなってしまった。実際は、もう20年近く読んでいないので、最近、この雑誌がどうだったかは分からない。でも、心の中には「当然の結果」と感じる自分がいる。

 少し前にはロックの専門誌が、愛読者の年齢層が高くなって、小さな文字では読みにくいということで字のポイントを上げる、という記事が出ていた。多分、購読者の母集団はかなり小さくなっているんだろうけど、それでもこちらはまだしばらく存続できるということで、幸せなことだ。でも、アゴラのブログで指摘されていた社民党のように、お年寄りの固定客との関係を継続するだけで、新しいファンの開拓に成功する可能性はほとんどゼロではなかろうか。そもそも雑誌で入手すべき情報として何があるだろう。一種のカリスマとしてその一挙手一投足が関心の的となっていたロックやポピュラー・ミュージックの勃興期と違い、BGM的に消費されるコモディティーと化した音楽に、特段の神秘性も付加価値情報も必要とされない気がするから。雑誌として盛り込むべき情報の選択肢が極めて狭まっているということだと思う。…もっとも、それは、自分がもうそういう情報に関心がなくなっている、ということだけなのかもしれないが、そういう人が多ければ、雑誌は売れないはず。実際、そんなことが実際のことなのかな~と感じている。


2010年6月2日水曜日

非対称…(再掲)

<削除したエントリーを再掲>

 金融不安絡みで…。<br /><br /> リーマン・ブラザーズ破綻以降、一説には世界大恐慌以来という景気の急降下が懸念されている。株価が続落する様を見ると、それもあり得るかも…と思うような展開だ。そして、日本がバブル崩壊後たった姿と酷似するような状況が展開されているような様子でもある。今、連日報道されているのは、公的資金の注入を巡るやりとりらしい。<br /><br /> 米議会で、当初、金融機関支援に否定的な空気が強かった理由の一端に、破格の報酬を得ている金融機関首脳陣に対する、世間一般の不満が背景にあったからと聞く-いいだけ暴利を貪っておいて、都合が悪くなったら税金で救済か!?という感じの…。しかし、天文学的(?)な所得を得ているとはいっても、「合法的」な企業活動に対する「正当」な報酬を得ていただけなのに何が悪い、というのもまた、あちらの国の大企業トップの理屈なのだろう。ルールに則って闘ったのだから、フェアーな試合だ。後になってからケチを付けるな、という感じなのかなと思う。<br /><br /> しかし、要は、そのルールをどのような観点で評価するかなのだろう。「Too big to fail」かどうかはさて置き、負の波及効果が大きすぎるが故に金融機関の破綻は、通常の企業がつぶれる時と違って、当局も特段の配慮を払う必要があることは理解できる。また、破綻阻止の費用と、「ルール通り」破綻させたもののその後生じた関連倒産等に対し、結局公的に負担せざるを得なくなるであろう費用を比べた時、破綻を阻止しておいた方が安上がりに済む可能性も高いのだろう。<br /><br /> つまり、ルールを評価する際、時間軸をどのように設定しているかが問われるということなのではないだろうか。素人考えだが…報酬は、報酬を得る段階までの成果を基準とする-その後は関係ない。いわば勝ち逃げという図式に対し、すっきりと納得できないわけだ。そもそも、金融機関-それが投資銀行であれ、商業銀行や各種保険会社であれ-は、破綻にともない公的資金を初めとした措置が必要なことはある意味自明。これは、詰め将棋のようなものではないだろうか。将棋を指したからといって必ず詰め将棋の図式になる訳ではない。途中、無数の可能性があり、お互いに勝つ可能性を持っている。しかし、手が進み、ある局面まで到達すると、その先何手かかろうとも最終的に勝敗の決する臨界点が存在する。最後玉が詰まれるまで、「まだ負けていない」「あの段階ではまだ分からなかった」と主張することは可能だが、虚言であることは当事者たちには自明。それと同じようなものではないのだろうか。<br /><br /> 無限責任から有限責任など、株式会社制度の整備が資本主義・経済の発展を促したとされる。それはいわば、最終的に事業に失敗した時の始末の付け方をあらかじめ明らかにしておくことで、リスクを事前に計算可能な状態にする(近づける)という意味を持っていたのだろう。したがって、事業失敗に伴う精算のルールを前提として、その時々の報酬の計算も行われていた以上、現状のルールでは金額がいくらになろうとも公正な所得である(理屈の上では結論付けられることになる)。しかし、そのルール設計の段階で前提とされていた事業モデルとは、単独の収支計算・損得計算で成り立つものであったはず。他企業や社会の状況を織り込んで設計されているわけではなく、他社の要素は捨象する形で、精算or事業継続を判断するだけなのではないか。一方、金融機関は、単独の収支計算・損得計算だけで判断できない可能性が極めて高い。つまり、刑事事件における遡及処罰の禁止ではないが、株式会社制度等は、後から何やかんやと注文を付けられないよう、その時々に集中して事業に取り組めるようなシステムを整備したって風に理解できるように思う。しかし、金融機関の破綻処理などを考えると、事後的な部分まで考慮した制度設計をしなければ、リスクとベネフィットのバランスが取れていないように感じるのだ。<br /><br /> 投資銀行に関して読んだ話だが、事業主体は自分の金で取引しているわけでない。いわば他人のフンドシ、リスクは他人持ち。そこで利益が上がれば投資家にも恩恵はあるが、失敗した時、損失を被るのは出資者だけで、取引を行った側ではない(仕事は失うかもしれないが…)。自らリスクを背負っていることで、取引行動にも一定の安全弁が働くのだろうが、本質的にリスク配分が非対称であるのだから、行け行けモードが加速する傾向を排除できないだろう。怖いもの知らずのティーンエージャーがいろいろ暴走するのと同様の図式といえば言い過ぎだろうか。共にリスクを感知できずにいるという意味では相似形だと思うのだが。<br /><br /> 法技術的に可能かどうか、素人なので分からないが…こんな事をつらつら考えると、結局、金融機関首脳陣の報酬計算は、事後的な要素まで考慮に入れる必要があるんじゃないかということだ。確か日経のコラムのどこかでも触れた人がいたと思うが、例えば退任後一定期間が経過してから報酬が確定するとか…。具体的には、退職時は一時金のみ受け取り、残りは年金のように後から状況に応じて支払われるようなイメージ。もらう側からすれば、自分の成果を後任に台無しにされる危険性がある、と不平を言うかもしれないが、自分の在任中の成果自体、前任の成果を食いつぶしているだけかもしれないのだから、イーブンかと…。<br /><br /> 日本の場合、これを事後的に行ったわけだけど、ただ、趣旨は違う要素が大きかったと思う。まあ、勝ち逃げは許さんっていう感情論が大勢で、何故、勝ち逃げしてはいけないのか、説明がついていない…というか、マスコミも道義的な側面から取り上げるだけで、社会的な制度との整合性を(意図的に?)無視していた気がする。事前的な規制ではなく、事後的に、いわばアド・ホックに設けられたルールに振り回されるのは、好ましくないので、一応、同情する気持ちもあるのだが、都市銀行でもヤクザな地上げ屋と同じような行動を取っていた面もあるようで、自分でも感情的に仕方ないかな、という気持ちも持っている(自分も他人のことは言えない-笑)。どれも素人の考えや部分的・表面的な伝聞に基づく考えなので、説得力のある代物とは思えないが、一応、こんなことをボヤ~っと考えたってことでブログにしてみた。

招かざる客…

 ほとんど他人に知られていないエントリーなので、投稿コメントなど気にしていなかったら、昨年の秋のエントリーに200件を越えるコメントがあってびっくり…。そこで覗いてみると…何のことはない、自動的に書き込まれている怪しいアドレスに誘導するためのゴミ・コメント。いちいち削除するのも面倒で、エントリーごと削除した。それほど残すことにこだわる必要もない程度のものなので。まさかそれが目的で…なんてことはないのだが、ここのブログ管理の仕様はそんな時、面倒だった。一覧で一気に削除対象を選択できるといいのだけど。まあ、不便を感じたら他所に引っ越せばいいだけのことだしね。