2010年6月2日水曜日

非対称…(再掲)

<削除したエントリーを再掲>

 金融不安絡みで…。<br /><br /> リーマン・ブラザーズ破綻以降、一説には世界大恐慌以来という景気の急降下が懸念されている。株価が続落する様を見ると、それもあり得るかも…と思うような展開だ。そして、日本がバブル崩壊後たった姿と酷似するような状況が展開されているような様子でもある。今、連日報道されているのは、公的資金の注入を巡るやりとりらしい。<br /><br /> 米議会で、当初、金融機関支援に否定的な空気が強かった理由の一端に、破格の報酬を得ている金融機関首脳陣に対する、世間一般の不満が背景にあったからと聞く-いいだけ暴利を貪っておいて、都合が悪くなったら税金で救済か!?という感じの…。しかし、天文学的(?)な所得を得ているとはいっても、「合法的」な企業活動に対する「正当」な報酬を得ていただけなのに何が悪い、というのもまた、あちらの国の大企業トップの理屈なのだろう。ルールに則って闘ったのだから、フェアーな試合だ。後になってからケチを付けるな、という感じなのかなと思う。<br /><br /> しかし、要は、そのルールをどのような観点で評価するかなのだろう。「Too big to fail」かどうかはさて置き、負の波及効果が大きすぎるが故に金融機関の破綻は、通常の企業がつぶれる時と違って、当局も特段の配慮を払う必要があることは理解できる。また、破綻阻止の費用と、「ルール通り」破綻させたもののその後生じた関連倒産等に対し、結局公的に負担せざるを得なくなるであろう費用を比べた時、破綻を阻止しておいた方が安上がりに済む可能性も高いのだろう。<br /><br /> つまり、ルールを評価する際、時間軸をどのように設定しているかが問われるということなのではないだろうか。素人考えだが…報酬は、報酬を得る段階までの成果を基準とする-その後は関係ない。いわば勝ち逃げという図式に対し、すっきりと納得できないわけだ。そもそも、金融機関-それが投資銀行であれ、商業銀行や各種保険会社であれ-は、破綻にともない公的資金を初めとした措置が必要なことはある意味自明。これは、詰め将棋のようなものではないだろうか。将棋を指したからといって必ず詰め将棋の図式になる訳ではない。途中、無数の可能性があり、お互いに勝つ可能性を持っている。しかし、手が進み、ある局面まで到達すると、その先何手かかろうとも最終的に勝敗の決する臨界点が存在する。最後玉が詰まれるまで、「まだ負けていない」「あの段階ではまだ分からなかった」と主張することは可能だが、虚言であることは当事者たちには自明。それと同じようなものではないのだろうか。<br /><br /> 無限責任から有限責任など、株式会社制度の整備が資本主義・経済の発展を促したとされる。それはいわば、最終的に事業に失敗した時の始末の付け方をあらかじめ明らかにしておくことで、リスクを事前に計算可能な状態にする(近づける)という意味を持っていたのだろう。したがって、事業失敗に伴う精算のルールを前提として、その時々の報酬の計算も行われていた以上、現状のルールでは金額がいくらになろうとも公正な所得である(理屈の上では結論付けられることになる)。しかし、そのルール設計の段階で前提とされていた事業モデルとは、単独の収支計算・損得計算で成り立つものであったはず。他企業や社会の状況を織り込んで設計されているわけではなく、他社の要素は捨象する形で、精算or事業継続を判断するだけなのではないか。一方、金融機関は、単独の収支計算・損得計算だけで判断できない可能性が極めて高い。つまり、刑事事件における遡及処罰の禁止ではないが、株式会社制度等は、後から何やかんやと注文を付けられないよう、その時々に集中して事業に取り組めるようなシステムを整備したって風に理解できるように思う。しかし、金融機関の破綻処理などを考えると、事後的な部分まで考慮した制度設計をしなければ、リスクとベネフィットのバランスが取れていないように感じるのだ。<br /><br /> 投資銀行に関して読んだ話だが、事業主体は自分の金で取引しているわけでない。いわば他人のフンドシ、リスクは他人持ち。そこで利益が上がれば投資家にも恩恵はあるが、失敗した時、損失を被るのは出資者だけで、取引を行った側ではない(仕事は失うかもしれないが…)。自らリスクを背負っていることで、取引行動にも一定の安全弁が働くのだろうが、本質的にリスク配分が非対称であるのだから、行け行けモードが加速する傾向を排除できないだろう。怖いもの知らずのティーンエージャーがいろいろ暴走するのと同様の図式といえば言い過ぎだろうか。共にリスクを感知できずにいるという意味では相似形だと思うのだが。<br /><br /> 法技術的に可能かどうか、素人なので分からないが…こんな事をつらつら考えると、結局、金融機関首脳陣の報酬計算は、事後的な要素まで考慮に入れる必要があるんじゃないかということだ。確か日経のコラムのどこかでも触れた人がいたと思うが、例えば退任後一定期間が経過してから報酬が確定するとか…。具体的には、退職時は一時金のみ受け取り、残りは年金のように後から状況に応じて支払われるようなイメージ。もらう側からすれば、自分の成果を後任に台無しにされる危険性がある、と不平を言うかもしれないが、自分の在任中の成果自体、前任の成果を食いつぶしているだけかもしれないのだから、イーブンかと…。<br /><br /> 日本の場合、これを事後的に行ったわけだけど、ただ、趣旨は違う要素が大きかったと思う。まあ、勝ち逃げは許さんっていう感情論が大勢で、何故、勝ち逃げしてはいけないのか、説明がついていない…というか、マスコミも道義的な側面から取り上げるだけで、社会的な制度との整合性を(意図的に?)無視していた気がする。事前的な規制ではなく、事後的に、いわばアド・ホックに設けられたルールに振り回されるのは、好ましくないので、一応、同情する気持ちもあるのだが、都市銀行でもヤクザな地上げ屋と同じような行動を取っていた面もあるようで、自分でも感情的に仕方ないかな、という気持ちも持っている(自分も他人のことは言えない-笑)。どれも素人の考えや部分的・表面的な伝聞に基づく考えなので、説得力のある代物とは思えないが、一応、こんなことをボヤ~っと考えたってことでブログにしてみた。

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