2008年5月18日日曜日

教育再生懇談会と民意

 ニュースによると教育再生懇談会で小中学生に携帯電話を持たせないよう提言するとのこと。最初、その話を耳にした時、なんとまあピント外れなことを!と正直に感じたのだけど、たまたま目にしたYahooのコメントでは、「ガキには早い!」といたくご同意な方々の激しい意見が上位に集中していてちょっとびっくり。それだけ強く不満や不安を感じている人が世の中には多くて、そんな空気を感じて政府はこんな提言をまとめてポイントを稼ごうとしているのか、などと感じた次第。

 最近、この手の懇談会やら審議会、委員会などなど、臨時で場当たり的に作られているものから出てくる論調は、どうも現実のfactsを踏まえて上で設計されたとは思えないようなものが多いように思え、言葉通りのポピュリズムに思えているのだが、これもそんなところなのだろうか。

 建築基準法の改正、これはこれで必要なことではあったが、羮に懲りて膾を吹くように、あまりに場当たり的に急ハンドルを切ってしまったため、肝心の建築行為自体が遅延するという逆効果が指摘されている。教員免許状の更新も、不適格教員を排除しろ、という国民の怒りを受け入れたものの、新たな予算措置もできないということで研修カリキュラムの詳細や物理的(施設的、人員的)な整合性の擦り合わせもないような形で丸投げ。実際に始まったらほとんど無給のボランティアで成り立っている部活動やその大会なんてどうするんだろう。また、研修医の位置付けから始まった医師の勤務条件の変革。他にも様々な不整合がある中で、建て増し建て増しでその場しのぎを繰り返し、結局抜本的な改革ができないままだから、とばっちりを受けて地方医療サービスが消失。裁判員制度も、国民感情と余りにもかけ離れた司法社会の慣習・常識に対する不満から導入が図られたが、開始直前になって色々と辻褄の合わない部分が指摘されるようになってきて、日本社会お得意の「総論賛成、各論反対=現状維持=先送り」状態に陥ってきているような気がする。最近目にした何かの文章では、「ぶっつぶせ!」と制度そのものを声高に全面否定するくらい。

 決してこれら声高の批判にすべて分があると考えているわけではないが、そもそも今の日本を全体としてとらえた場合、悪いと分かっているのになかなかタバコを止められない喫煙者のことを、時間を引き延ばした自殺とも形容するが、そんな状態に陥っているのだろうか。

 小中学生や高校生の携帯電話にフィルターを掛けるにしろ、通話だけに機能を限定するにしろ、犯罪には被害者だけでなく、加害者もいるわけで、片方のみいかに強力に規制したとしても効果はあまり期待できないように思えるのだが…。つまり、規制されて、その範囲内に止まっていられる気質の子供たちは、そもそも規制がなかったとしても世間を騒がせるような危険なエリアまで近づいていかない場合が多いような気がするのである。間違いなく出会い頭の衝突のような突発的な事情で被害に遭われる人もあると思うが、危険だと思わず、むしろ好奇心が旺盛で何事にも関心がある世代であるが故に、つい近づき思わぬ被害に会うケースが多そうに(自分も含めた友人たちの思春期の行動特性を思い返すと)思えるのだ。そうなると、他人が如何に本人たちを思いやって規制したとしても反発の対象としてのみ作用し、抜け道を探すであろうし、当然潜在的加害者たちは規制の網から漏れてくる羊たちに網を広げて待っているのであろう。…そんなステレオ・タイプな図式が思い浮かんだのが、最初の、なんとピント外れな!と感じた理由だったのだが、世間では、まず規制しようとする、その点で肯定的に評価しているようだ。政策なり規制なり何でも、その意図・目的と同時に成果・結果も問われなければならないと思うが、感情や心情に、その正否が大きく左右される性質の施策は、近視眼的なことが多いようにも、感じる。

 もっとも、長期的視点に立っているといえば、それで何でも許されるわけではないが。

2008年5月17日土曜日

ミル『自由論』雑感

 ミルの自由論。その書名は昔から目にしていたが、テストのために覚えておくべき政治経済分野の古典として名前を知っているだけで、大学あたりの授業か何かで課題にでもされない限り実際には読むことのないものと考えていた。でも、何かの折、本屋でたまたま目にして、その時買おうと思っていた本と関連があった(…のかもしれないのだが、忘れた…)ついでに買ってきて…これも数年間本棚で眠っておったのであった…。

 長い論考の各々について触れることは、自分の力量も物理的なスペースも越えているので避けるとして(笑)、読後感を…。それは、一言で言えば、百年、二百年経っても本質的に変わっていないんじゃないか、世の中って?というイメージ。昨今の時事論壇の主張、正論・反論問わず、それらの根拠として示される論点・論旨の原型が何度も現れてくるのである。まったく同じような主張を先日も耳にしたような錯覚にとらわれるくらい、論理がオーバーラップしている。確かに、科学的な手法や脱宗教的な論理などなど現代の学問世界の原型は19世紀にあり、時代時代の出来事でデコレートされることで新しい装いをまとって、ニューフェースよろしく、何度も登場し直してきているのだろうから、同工異曲を聴くのも当然かもしれない。まして、その時代その時代に生まれた人間には、嘘偽りなく初めて目にし耳にする話題な訳だから新しく見えるのも当然であろう。そして、歴史というもの全般を、進歩発展する現代にとって無用の長物とする風潮においては、このような事態がますます加速することは必然。、アカデミックなものでさえ、過去の蓄積を顧慮するより、無駄な装飾や回り道を削り落としてコンパクトでスマートになった教科書を要領よくマスターし、その後はできるだけ独自の言い回しを生み出してそれをテクニカル・タームとして認知させることを競うような「エコン村」の住民型の輩が増えていると言われているようだし。

 ミルは『経済学原理』も有名だが、さすがにこちらは買っていなかった。マーシャルの方は欲しいとおもったものの、気がついた時には既に新刊は絶版で、古書もそれなりの値段で断念。それは置いておいて…ミルだが、解説によるとこの『自由論』は『経済学原理』とセットの性質があるらしい。有名な賃金基金説を前提に論じている労働者に関するコメントなど、その典型であると指摘されていた。また自由放任という表現も、ミルにその起源、もしくは起源の一端があるかのような表現があるが、そうはいっても、後年、夜警国家などと揶揄されるほど、必ずしも貧しさで餓死することまで自由の当然の帰結として考えていたわけではないらしい。まあ、当たり前のことなのだけど、えてして後生、誰かが勝手にオリジナルに付け加えたコメントまで本家の責任にされがちなので、自分としては明確に区別がついたことに、この本を読み切ったことの満足感の一端があったりするわけだ。

『スーパーコンピューターを20万円で創る』

 随分、久し振りに風邪でダウンしてしまった。前日の午前中から熱が上がり始める気配がして、夕方には微熱状態に。途中、急に身体がだるくなってきて節々が痛み出したので「もしや?」とは思っていたのだけど…特にひどく咳き込んだり、はなが出たりってこともなかったので気のせいだと思いたかったし…でも、実際は着実に病状は進行。仕事がヒマだったこともあったので早退して熱を計ったら38.7℃。気休めに市販の風邪薬もどきを飲んで寝たものの、翌朝も38.0℃。気合いで出勤して仕事を…と思ったものの、多くの人と接する機会がある仕事上、他人にうつしてもまずいと思い直し病休の連絡。

 家人と一悶着した後、しぶしぶ病院へ行って帰ってきたら職場からご丁寧に「インフルエンザも流行っているので、必ず病院へ……」と留守電が…(もっとも気がつかず夕方まで放置してしまい、帰ってきた家人に指摘される始末になってしまった)。

 そうはいっても唯寝ているってことも難しいことで、本を読んで時間を潰すことに…。こんな時なのであまり頭を使わずに済みそうなものを…ということで「スーパーコンピューターを20万円で創る」(集英社新書)を読んでみる(買ってから随分本棚の肥やし状態で放置されていたもののひとつだったりする…)。

 その昔、大変面白いと思いながら連載を読んでいた「栄光なき天才たち」の原作者が本書の天文学専用コンピューター制作ドキュメンタリー作者と同一ということにちょっとびっくり。本文にもあったが、あのシリーズが単行本化され、それなりに人気を博したことは書店の棚を眺めて気がついていたが、その背後のエピソードは想像不能であった。確かに、原作者が必ずしもマンガ業界べったりであるとは限らないわけで、アルバイト的な原作者がいてもおかしくはない。もっとも、そうはいっても普通はそういうことは起こらないので、落ちても落ちても投稿し続ける粘りと、その過程で相応に筆力が向上するだけの才能に恵まれていたのであろう。そのように自らの能力を成長させていく力は、分野が違っても発揮されたようで、まったくの素人であったコンピューターにおいても新機軸を打ち立てることに成功する。まあ、半ばセミプロであった人物が、自分のことを軸に展開するストーリーな訳で、実際飽きさせることなく、最後まで読まされてしまった。

 「ゼロから1を作り出す研究」と「1を10にする研究」、「世界一の研究を成し遂げるには方法が二つある。一つは世界一頭が良くなること。もう一つは世界中で誰もやっていないことをやること」。研究者の心構えを示す語録としてたびたび登場したフレーズ。一面の真理を突いた、大変魅力的なことばではないだろうか。同工異曲のフレーズがあることは承知しているが、当事者たちの心情と置かれた状況にマッチした表現として、このドキュメンタリーに色を添えているものといえよう。そして、天文の世界を前提に開発された同じ装置が人間の遺伝子情報を元にしたタンパク質合成のシミュレーションに向けても改良されていくということを知り、さらに今後の展開に興味が惹かれる。続編を期待する次第である。

2008年5月3日土曜日

石の上にも三年

『若者はなぜ三年で辞めるのか』。遅ればせながら読んでみた。職場の休憩室には、読み終わって古くなったアエラを置いていく人がいるのだけど、それをパラパラめくって斜め読みしていた時、若者の雇用環境と勤労観などについて取り上げたページが目に止まった。『シュガー社員が会社を溶かす』とか『負け癖社員はクビにしろ』などだったかと思う。これらの中には、(化石的な表現である)新人類どころか異星人、異次元人(?)とでも呼べそうな面々のエピソードが登場するし、それらは他のところでも目にしたり耳にしたエピソードの同型異種とでも呼べそうなものが多い。そんな内容のさわりを紹介したその記事に刺激されて、紹介された本を実際に読んでみようと思ったのだが、その時、以前から話題になっていた前掲書が目に止まり、ついでに読んでみようと手に取ったのだった。


すでに同じ著者が、辞めて3年後の連中がどうなっているか、という後日譚的著書を上梓しているので時代遅れもいいところなのだが、自分が持っていた雇用環境等のイメージを整理する上では無駄ではなかったと思う。


就職超氷河期とも呼ばれた、経済の長期停滞期に日本の雇用慣行の多くが揺らいだ、ということ。それは、他にもいろんな場面で強調されてきたことだと思う。ただ、そのような変化があった部分より、今なお残存している終身雇用制的な側面と、新たに導入され始めた仕組みが馴染んでいないことに起因する社会的齟齬がポイントのように思える。新しい仕組み(米国流であれ新しい経営理論に基づくと華々しく宣伝されたものであれ)が上手くワークする、いわばフットワークの軽い会社というのは、比較的規模の小さめなケースが多いだろうことが想像される。何事も例外はあるし、程度の問題だが、それでいうと大きな企業で新しい制度が導入されると、制度的な摩擦から、とばっちりを受ける人の方が大量に発生することが予想され、結果として恩恵を受ける人よりダメージを受ける人の方が社会全体として多くなるのだろう。実力主義ってスローガンの下、行われた新しいマネージメントの実態は大義名分の立つ「首切り」に過ぎなかった面があったらしいことからもそのような傾向がありそうな気がする。これが、メリットを感じられる人の方が相対的に多かったのなら、何かにつけ取り沙汰されるような社会的不満はそれほど大きくならないだろう。社会的心理の下地として不満な気持ちを抱えている故に、年金問題でも後期高齢者医療制度問題でも政府に対する反対票が加速度的に増えていっているような気がする。多少不手際があったとしても多くの国民が前より希望の持てる施策が進められていると感じていれば、気長に成果が現れるのを待とうという雰囲気が生まれそうな気がする。


その昔、新聞の報道を読んでいる限りでは、明日にでも政府が崩壊するのではないかと言うくらい政権批判の言葉が紙面を飾っていても、いざ選挙になると与党が圧倒的に多数を占めいていた。子供の頃…まあ、冷戦がまだ激しく繰り広げられていて、国内でも左右両派の対立が国会乱闘などに結びついていた時代だけど(笑)…不思議でならなかったんだけど、いろいろ不満はありつつも、まだ政権与党の施策を許容していたんだということなのだろう。長いものに巻かれていたり、儒教的封建的な意識だけだったり、付和雷同や風見鶏だったり…と何も積極的に事態を肯定していた人ばかりがいた、とは思わないのだが、それでも現在歩いている道の延長線上から、それほど離れていない先に未来があったというイメージだろうか。


実際にアメリカ風であるかどうかは別にして、発展途上国で怨嗟の的となるグローバリゼーションは、日本の場合でも多くの場合アメリカの名前と共に広まりがちだと思うが、自己責任や実力・成果主義的人事管理の結果、それまで広く薄く多くに人々に振る舞われていた賃金が、一部に集中するようになり、その分、分け前に与れなくなった人々はお払い箱にされた、という図式は、アメリカのビジネス社会の風景とオーバーラップして見えるのは否定できない。そして、金融・証券関係の仕組みもあちらに近づいて行っているのは間違いないことだろうし、サブプライム問題で、勝ち逃げしている奴がいるのも、あちらの国らしい。もっともあちらの国の中でも逃げ遅れた奴がいるみたいだけど、ひとつの会社内の格差が、国際社会全体で繰り広げられるようになっていっているってことだろうか。理屈から行けば、当然の帰結だが…違いは結果が行き渡るまで時間がかかるって事だけか…。


話は戻って、古き良き終身雇用慣行に回帰すれば問題が解決される、なんて簡単なものではないが、シャーシの中に、最初のうちは点在していたコロニーが、時間が経つに従い拡大し、やがて接触しあうものが現れる。そのうち、互いに距離を置いて共存したり、一方が他方を侵食し呑み込んでしまうなど、さまざまな定常状態に到達し安定する…現在の状況もそんなことなんだろうか。当然、接触している最前線では戦いが繰り広げられ、多くの犠牲が生まれていたことだろう。


時流に乗ったお題目を付和雷同的に吹聴するイナゴが目に余って腹立たしい気持ちにさせられることがたびたびあるものだが、このところそんなことが当たり前な風景になって久しいな…。