2008年12月31日水曜日

ubuntuへの道(その5)

ubuntuではないが、VirtualPCから全面的にVirtualBoxに乗り換えることにした。ubuntuだけVirtualBoxだったのだが、並行してWinをサブで起動したい時、いちいち片方を終了させないとハングしてしまうので面倒だった。ちなみにホストはWinXPだが、ものによってサブのほうで作業することがあるので…。

ついでに職場の同僚に頼まれていた再インストールの手順マニュアルを作ってやるのに、画面をキャプチャしながら作業を進めてみた。おかげで自分でもあやふやだった作業要領を確かめることができ、一石二鳥になった。当然、同僚には大変喜ばれると同時に「どうやってこの画面を印刷したんだ?」と質問され、仮想化の話をしたが「??」であった(笑)。

今回は3日くらいで、sp3までアップデートが進み、現在はホストと同じ状態まで更新された。まあ、実験的にインストールしてみているってのが実態なので、それほど使用頻度が高いわけではないのだけど、一時的に使用するソフト類を暫定的にインストールしてみて様子を調べるのには格好のシステムだと思っている。

2008年11月3日月曜日

ubuntuへの道(その4)

ubuntu を使っていたらファイルが壊れた。…というより、壊したといったほうが正確で、ウェッブを閲覧中、アップデートの案内が出たので、他のファイルをダウンロードしている途中でアップデートさせてしまった(笑)。案の定、その後、おかしくなってしまったので、再インストールしたのだった。1回経験しているのでもう簡単と思ったのだが、そうではなかった…ということで、自分のメモを兼ねて再度手順を整理しておく。


<再設定手順>
■ubuntu 本体インストール後、「Guest Additions のインストール」
  1.[デバイス]-「Guest Additions のインストール」を選択
    → デスクトップ上に「仮想的なCD-ROM」がマウントされる

  2.端末を起動
    → $ cd /media/cdrom0
       $ sudo sh VBoxLinuxAdditions-x86.run

    → 端末のボックス内で、ファイルが展開され、インストール作業が進む

  3.再起動


■VirtualBox のメニューから「共有フォルダ」の設定
  1.[デバイス」-「共有フォルダ]

  2.ポップアップしたボックスの右上[新規共有フォルダの追加(Ins)]

  3.ポップアップした[共有フォルダの追加]ボックス内、
    上段のレターボックスの右▼[ドロップダウンリスト]から[その他]

  4.共有に使いたいフォルダーを選択

  5.[永続化]にチェック


■ubuntu 側で共有の設定
  1.共有用のフォルダを作成…/media/share など

  2.端末起動

  3.$ sudo gedit /etc/rc.local

  4.最終行の「exit0」の前に
    $ sudo mount -t vboxsf (共有フォルダ名)  /media/share を入力

   ここで(共有フォルダ名)は、VirtualBox 側の[デバイス-共有フォルダ]と
   選択して、ポップアップした[共有フォルダ]ボックスに表示されている名
   前を使う…右側にWindows側のパスが記述されているので、その左側の名前

   ただし、今回は、端末から手動で入力する分には反映されるのだが、rc.localに
   記述しても有効にならず??(前回は上手く行った気がするのだが…)

   そこで、$ sudo mount.vboxsf -n (共有フォルダ名)  /media/share と入力

  5.保存して再起動するとOK!


以上でセットアップ終了です。

2008年10月15日水曜日

IE7自動更新ページ撃退(!?)

 日頃、SleipnirやFirefoxを使っているのだが、たまに必要になってIE6を開くと、いつの間にかInternetExplorer7の「自動更新ダウンロードのお知らせ」ページがスタート時に開くようになってしまっていた。もともと設定では「白紙」にしてあり、何度変更し直しても次に起動すると、やはりIE7のページが開いてしまう。Spybotをインストールしてあるので、IEの設定を白紙に再変更した後、レジストリの変更を遮断するようにしたり、IEの方でブロックするようにアドレスを指定するなどしても改善されなかった。


 そこでネットを調べて、まずIE7の自動更新をブロックするという「Blocker Toolkit」をダウンロードしてみた。ActiveXを先にインストールしないと、toolkit本体がダウンロードできなかったり、圧縮ファイルを解凍すると、ディレクトリのず~っと奥の方に解凍されていて探すのに手間取ったり、Dos窓からコマンド入力でセットアップしたりと手間取ったけど…結果は×。


 次にレジストリの書き換えに挑戦。webに記載されていたStart Pageやhome_1441(?)という名前のキーの値を変更する方法を試してみたが、それでもダメ。そもそもそういう名前のキーがないものもあった。


 でも、かならず何か設定があるはずだと思って、値にMicrosftのURLが入っているものを探してみた。HKEY_CURRENT_MACHINEとHKEY_CURRENT_USERとどちらにも\SOFTWARE\Microsoft\Internet Explorer\Mainというキーがあるので、両方探してみると…「HKEY_CURRENT_USER\SOFTWARE\Microsoft\Internet Explorer\Main\first START Page」という名前を発見。そこの値はどうやら他の場所で使われているMicrosoftのURLと違っている様子。そこで、最初は、下の「Local Page」のキーのところに入力されていた「C:\WINDOWS\system32\blank.htm」を借用して使ってみた。


 再起動させIEを起動するとエラー画面が出て、blank.htmは無いとの表示!!エラーではあったがにっくきダウンロード画面が勝手に表示されず、目的は成功。場所は間違っていなかったらしい。次に、再度レジストリ・エディターを起動して、先程の値を「about:blank」に変更。次はエラーも出ず無事白紙画面が表示されるようになってトラブル解決。


 …だったと思うのだが、後から変更を確認しようとするとキーが無くなっており(?)、キーの正確な名称が確認できなかった。無効な値だったのでシステムの方で削除したのかも…。まあ、とりあえずスタートページの勝手な書き換えから逃れることができ、一件落着。最終的なキーの名前は正確でないが、firstから始まったのは確かだったと思う(自信ないけど)。


 IE7の次のブラウザの話も聞こえるが、まあ、今のところあえて乗り換える必要は無い様子。Google Chromeもあるしね。今回、スタートページの書き換えを元に戻す方法を検索したのだけど、結局見つけることができなかった。自動更新を遮断する話はあちこちにあったんだけど…。結構困っている人がいるような気がするのだけど、そうでもなかったんでしょうかね。

2008年10月13日月曜日

仮想化ソフト二重起動

 以前、ubuntuをインストールするのに格闘したVirtualPCには、他にXPと2000を入れてあって、一種の役割分担をさせて使っている。ubuntuだけ新たにVirtualBoxを入れて、そこにインストールし直したわけだ。

 …ということで、我が家のメインPCには、二つの仮想化ソフトが入っている。先日、ubuntuにはデフォルトでTorrentソフトが入っていたので、試しにubuntuのTorrent版をダウンロードしてみた。しかし、当然ながら時間はかかる。そのうちVirtualPCに入れてあった方のXPにインストールしてあったアプリを使いたくて、試しにそっちも起動してみた。

 …仮想化ソフトそれぞれで利用するメモリのサイズは、512Mバイト同士なので、なおホスト側にメモリが1Gバイト残るんだが、無茶かな~と思いながらもやってみたら…固まった(笑)。これは、全部VirtualBoxに揃えろっていう天の声なんだろうかね~(笑)。そもそも、メインの機械にユーティリティのソフトを沢山入れてしまうと、色々と不具合が起こりそうで嫌なので、それほど頻繁に使わない小物は、仮想の方に分けてあった。またそんなソフトが新たに出てきたんでインストールするのに起動したわけ。しかし、その後、結局動画関係で上手く行かないものがあったため、ネットで探した各種コーデック、ソフト類をいくつもインストールする羽目に陥り、あまり区別の意味がなくなってきてしまった(笑)。どうしようか。また大々的な引っ越しか??(笑)

「疑惑の銃弾」の結末

 サイパンから移送された三浦容疑者…今日の記事はほとんどが三浦元社長になっていた…が、自殺した。ニュースを聞いた最初の感想は、逃げ切れないと観念したのかな、というもの。本人は無罪を主張していたし、当然、推定無罪なんだが、この事件は自作自演だった疑いを拭えない…。もっともその考えは、そのほとんどが週刊誌やテレビのワイドショーなどが流した情報に基づいたもので、私自身が一次情報に接することはあり得ない以上、偏見にどっぷりつかったものであることは間違いない。正直な話、テレビの何たらドラマ・シリーズなどで繰り返されるサスペンス物を見るのと変わらない状態な訳で、何か意味のあることを考えられるわけではない。ただ、この裁判の展開を最後まで見てみたかったので、残念な気持ちはある。

 以前、考えたことだが、一事不再理の原則も今回、どんな風に扱われるのか、興味があった。あちらの司法関係者の思考構造みたいなものが浮かび上がった可能性が高く、そのような知識を持たない自分としては、おおいに勉強になる事例となったであろうから。また、亡くなった方の親族も、例え最終的に死刑判決とならなかったとしても、事件について何らかの事実が明らかになることを願っていたのではないだろうか。つまり、殺人事件に関する謎が解明されることを…三浦容疑者が死刑になるか否かはまた別にして。しかし、どうあれ、すべて終わってしまった。そう思うと、裁判の入り口と思っていた、サイパンからの移送を認めるか否かが、実質的に関門のすべてだったのかなと思われる。そこを突破されてしまうと、その先は、彼にとっては詰め将棋と同じだったのだろうか。最終手まで筋道が決まってしまっていると。

 アメリカ側では殺人罪は一事不再理の原則を尊重して、共謀罪で審理を進める方針だったのだろうという観測記事も目にした。表向き、法的な原則は万国共通であり、不満があっても日本の司法判断を無視するわけに行かなかったとしても、実質的に同等の公判を維持できる、という考えだったように思える…。まったく根拠のない思い込みに過ぎないが…。どちらにしても、最後の決着がつくところまで見たかったと思う。…野次馬根性と違いはないが…。

NHKのメジャー中継?

 調べもしないでの疑問だが…

 NHK-BSのメジャー中継。レッドソックス-レイズ戦を観ていて「?!」となったのが、バッターボックス後方のフェンスに「東進ハイスクール」の広告。その前も「ケロッグ・コーンフロスト」の広告が出ていた。どちらも漢字・かな文字で…。当然、NHKが自分でそんな広告を放送するはずないと思うのだが、実際はどうなんだろう?

 一応、自分なりに考えて可能性の高い予想が…映像はメジャー・リーグ側が各国の放送局に配信しているのだろうから、撮影した映像を配信する段階で、各国の企業から受注した広告を入れる加工を行って送信しているのだろうというもの。どうも、フェンスには、画像の組み込みが容易なように緑一色のパネルが貼ってあるだけで、放送の段階でそこに広告用の画像を貼り付けている様子。時々、パネルの端っこだけがバッターのアップの背後に映るとき、無地のパネル面だけが見える気がするので、そこからの推測だが…。

 そうだとすると、NHKが広告料を得ているわけではなく、大リーグ機構が広告収入を上げていることになるが、それを承知で配信を受けているNHKは、いわば確信犯的な共犯(…別に犯罪ではないが、比喩的に言っての話で-笑)。自局で企業名を挿入するとまずいが、スタジアムに掲示されている企業広告の看板が映像の中に入ってくることは避けられないっていうのと同じ理由で、名前が放送されたからといって目くじら立てることではないが、企業は間接的にNHKで企業宣伝を行うつもりで大リーグに広告料を支払っているようなもの。公共放送(笑)の合法的な一部私物化と言えなくもないですね。以上の想像が正しかったらの話だけど、広告を申し込む側(今回なら東進など)は、どんな目論見で申し込んでいるのだろう。興味がわく。

ポストシーズン、スタート…

 私自身は、特に野球が好きなわけではないが、日本ではスポーツ・ニュースでも野球関連のニュース量が圧倒的に多く、否が応でも野球関係の情報が耳に入ってくる。日頃、まず滅多に野球中継を視聴することもないが、たまに観ても、ずっとテレビの前に張り付いているってことはなく、途中でPCのところに行って一作業終えた頃、居間に戻って続きを観る…なんて感じ。そして、応援のやかましさと、多くの場合、「解説」という名前のおしゃべりを聞かされることが嫌で、音は消しっぱなしってことが普通。…でも、そんな風にしていると、思わず作業に時間を取られ長時間席を離れることがあると、カミさんにテレビのスイッチを切られているってこともよくある(笑)。

 アメリカのメジャー・リーグは、勝ち残っている4球団すべてに日本人がいるって事で、まだしばらく報道のタネが続きそうだし、セ・リーグは巨人の歴史的逆転劇でポスト・シーズンに入り、パ・リーグはクライマックス・シリーズで(我が地元-笑)日本ハムが1勝した。そんな中、昨日は、松坂が投げるっていうので、珍しくメジャー中継を(飛び飛びだけど)観てみた。

 以前から不思議(?)に思っていたのだけど、どうしてアメリカの選手たちは、試合中、あんなにベンチ内にツバだの口をゆすいだ水(?)だの、何かのタネの殻だのを吐き出すんだろ?観ていてどうも汚く感じるんだな~。常識や習慣の違いだろうからとやかく言うことじゃないんだけど、目にするとどうも気分が悪い。…でも、観客の応援の様子は好きだな~。企業チームや学校の代表が闘う大会で、所属企業や学校の仲間たちが団体で応援を繰り広げるっていう姿は理解できるんだけど、組織されていない、雑多なお客さんが入っているプロ野球のスタンドでも、鳴り物入りで、かつ巨大な旗などを振り回し、音頭に従って大声で一斉に叫び続けるスタイルの応援が当たり前な日本の風景は好きになれない。もっとも、これも好きずきで、そういう応援に参加することで満足できる人もいるので、とやかく言うことではないのだが、球場に行けば、自分は参加したくなくてもその大音量の声援や楽器の音に晒されるわけで、自分だけ異なった環境を得ることは不可能。もともとそれほど野球ファンてわけじゃないところへもってきて、そんなところも、球場まで足を運んで観戦しようと思わない、理由の一端かなと思う。まあ、ここだと日本ハムの試合かたまに地方に回ってくるセ・リーグ球団の試合ぐらいだから、たいした回数でもないんだけど、好きな人はよく観戦しているようで、ビール代が高い…などよく聞きますね。

 思いつくまま、脈絡のない話だけど…

 昨日は、松坂が8回まで投げたけど(アウトが取れずそこで降板だったけど)…試合展開にあまり左右されず普段から球数で交代するってのがメジャー流とよく解説される。そこで日本ならまだ投げさせるのに…残念ってニュアンスの話がつながりがちなのだけど、それは裏を返せば、投げきる=英雄…というタイプの図式を前提としたコメントってことではないだろうかと感じている。いわば、英雄・ヒーロー待望論みたいなイメージ。野球の場合、特にピッチャーだと選手本人の姿と結果を明確に照合できるので、そんなフレームワークと親和的って気がする。一方、サッカーだと、最終的にシュートした人間は一人だが、それを可能とするお膳立てに何人もの有形無形の働きかけが作用している場合がほとんど。まあ、最終局面の勝負弱さの論議はあるけど、でも「組織」として闘っていることは自明の理。したがって、野球もチームとして戦っているのだから、交代したピッチャーに余力があろうがなかろうが、その後のブルペン陣もセットで評価すべきなのだろう。それも、観戦している試合だけではなく、シリーズ全体を通した形で…。

 逆にサッカーの場合、ひとつひとつのプレイが一人の人間だけで完結しない度合いは野球よりはるかに高いにもかかわらず、特定のヒーローを(意図的に/無理してでも)作り出して報じようとする傾向が強いようにも感じる。ニュースを書く側からすれば、そのほうが書きやすいのだろうなって気はするのだけど、もう少し深みのある内容を期待したいな~と思う。他にも、優勝した選手の報道を観ると、周囲に誰か死んだ人がいないと勝てないのかなって錯覚するくらい「天国の○○さんへ…」式の話が多いような気が…。

 …これも原稿の下書きを作っただけで投稿を忘れていたら日本ハムはCSシリーズ第1ステージを勝ち抜け、レッドソックスとレイズは1勝1敗のタイになった(笑)。

ゴミ有料化

 今年最後の芝刈りをした。朝ゆっくり起きて…新聞読んで…ネットを見たり…コーヒー飲んだり…だいぶ遅くなって歯を磨いているとカミさんに「芝刈ってね」と…。住んでいる街は、来月からゴミ回収が有料化された。古くなった芝刈り機を無料のうちに滑り込みでゴミに出すため、最後のお仕事をさせろとのお達し。しぶしぶ働く(笑)…なぜなら…(言うまでもないか笑)。

 ゴミ回収の有料化自体に異論はないのだが、効果がどうなるか、気になる。このような施策は、どの程度強制力を持てるものなのか。…というか、ルールに従わない振る舞いをどのようにして抑制するつもりなのか、分からないということ。実際、ゴミ・ステーションには家電リサイクル対象のテレビや小型の冷蔵庫が放置されていたこともあるが、そのような場合、周辺の人間でなくて、遠くからそっと運んで来たっていうケースが少なくないとか--ゴミ・ステーション周辺の住民の声だが。でも、特に疑って割り引いて考えなくても良いような、普遍性のあることばだと、私は感じている。

 要するに、外部不経済が発生しやすいゴミ問題に、さらに負の方向のインセンティブが増加されると感じられるわけである。無料の時だと、カラス除けのネットをきちんとかけていないとか、時間を守らない等々の問題が話題に上ったが、有料化になると料金を負担せず放置されたゴミをどうするか、深刻な問題となる。どこかで料金を負担するのか、行政の側でその分、見込んで対応するのか。最初からフリーライダーを織り込んだ施策だと考えて料金を負担せずゴミを出す輩が多ければゴミ・ステーションが不衛生な状態になるのは必然。住民のモラルを高めて…などとといっても、生活圏の外からゴミだけ持ち込まれては打つ手なし。

 簡単に言えば、フリーライダーの抑制には罰則規定が必要だと思われるが、しかし、そのためのモニタリングのコスト(人的、時間的、経費的等々)を考えると割に合うのかどうか。ただ、そのような防衛策を何ら講じず、地域住民の丸投げする施策執行姿勢が多いのではないだろうか。他のところの話だが、町内会長が張り込みをして「犯人」を捕まえ、「もうやりません」との言質を取ったが、その後、別のゴミ・ステーションに捨てるようになっただけだったとか。私人間では限界があることは当然。

 ただ、一方では公権力の介入は…と否定的に捉える立場も存在するのでしょうね。そのため何たらの市民運動的な団体に抗議される糸口を作らないため、自己防衛的に行政の側でそれら権力行使的側面を盛り込まず施策を立案するのだろうか。まあ、ケース・バイ・ケースで理由は一概に決められないのだろうが、「仏作って魂入れず」。せっかくの取り組みも住民の満足感を低下させるだけの結果になっては残念だ。今後の展開を注意深く見守りたい。

 …ここまで原稿を作って、投稿するのを忘れていた(笑)。案の定、料金を負担せずごみを出したり、分別の区分を守っていないごみがチラホラ…。市役所の職員は、朝早くから当日の収集区域のごみステーションで立ち番をしている様子。効果のほどに限界があるのは当然だが、少しでも努力しようとの姿勢を見せることが重要なのだろう。今後、「違法」な(?)ごみが減ることを期待するのだが…。

2008年9月15日月曜日

仮想化Ubuntuへの道(…まだ途上だけど…)-その3

 翌日、「まてよ…」と思って、パスではなく最終的なフォルダ名…今回の例でいえば「Tmp」だけ入力すると無事、ゲスト側 Ubuntu の share フォルダ内に、ホスト側 Windowsの Tmp フォルダ内のファイルやサブ・ディレクトリが見えてきた。

 ただ、課題は起動のたび、マウントし直さないとならないというところ。これはネットを調べていたとき、同じようなやりとりを見ていたので、そこを参考にして設定ファイルの書き換えに挑戦。

 どうやら「/etc/rc.local」に端末で入力したコマンドラインと同じく「mount -t vboxsf ~~」を書き込んでおけば、起動時に設定を読み込んでくれるということらしい。早速「$ sudo gedit /etc/rc.local」を実行。最終行の「exit0」の前に「mount ~~」を入力。保存して再起動♪…起動してから「share」フォルダを開いても「(空)」。まあ、そうそう簡単にはいかないさ、と気を取り直してから端末を開きコマンドを入力して、とりあえず動作を確認しようと思ったら…開けない???。さっきはこれで共有フォルダの内容が見られたんだからと思い、再度トライするも「No such device」のお言葉。大文字小文字が影響するのかと思い、正確に再現するも変わらず。ここでまた水入り…ということで、カミさんに頼まれていた買い物の運転手となり半日外出。

 帰ってきてからPCの電源をオン。VirtualBox を起動して ubuntu も起動。端末から共有フォルダのマウントを試みるが失敗。結果は同じエラー・メッセージ。ネットを検索してエラー・メッセージから何か分からないかと探してみるが有効な情報が見つからず諦めモードへ…。ところが、ふと、前回、最初にマウントに成功した後、前の晩から表示されていたけど、共有フォルダの設定ができてから行おうと思っていた update を晴れて実行したことを思い出した。作業の途中で ubuntu 本体の状態が変わるとまた振り出しに戻りそうなのをおそれてのことだった。ただ、その結果、まずマウスの動作が変化。前は ubuntu のウィンドウ内とホスト側のXPの間を区別無く動いていたのに、update したら、いちいち右の ctrl キーを押してからでないと Windows 側にアクセスできなくなっていた。また、ログイン画面の時、グラフィックス・カードを上手く認識できないのか 1280 ピクセルでスタートするようになってしまった。ubuntu 自体は 1027×768 に設定してあるんだが、以前、VirtualPC に ubuntu をインストールしようとしたときのように実際の画面サイズを無視した振る舞いをするようになってしまったのだった。まあ、それも仕方がないのかな、と釈然としない思いを抱きつつも、共有フォルダの再設定方法を探すことをまず優先していたわけだった。これが終わったら次、起動時の設定を検討しようと思って。

 しかし、そこに落とし穴があった。そもそも最初に共有フォルダを使えるようにする段階で、「Guest Additons のインストール」が必要だということだったので、それを実行してからマウントしたのだった。まあ、そのインストール自体も、何のための作業で、どのような性質の操作なのかも分かっていなかったので、何をすればいいのかも不明。DOS系のように EXE ファイルをダブル・クリックしてみたりしたが反応無し。他のファイルをエディターで開いてみて、何か記述があるかと思っても見当違いの様子。そこでネットで探すと…

(引用開始)
ゲストOSのインストール後に、仮想マシンウインドウのメニューの「デバイス」→「Guest Additions のインストール」から、コントロールや画面の描画速度を改善する拡張機能をゲストOSにインストールできます。

「Guest Additions のインストール」を選択すると、ゲストOSに仮想的なCD-ROMがマウントされます。そのCD-ROMの中にインストーラーが入っているので、インストールしておくと良いでしょう。

Guest Additionsのインストール(ゲストOSがWindowsの場合):CD-ROM内の「VBoxGuestAdditions.exe」を実行します。

Guest Additionsのインストール(ゲストOSがLinuxの場合):CD-ROM内の「VBoxLinuxAdditions.run」を実行します。

$ cd /media/cdrom0/$ sudo sh VBoxLinuxAdditions.run
(引用終わり)

という記述を見つけたので、自分なりに解釈して「VBoxLinuxAdditions.run」をマウントした CD-ROM 内にあった VBoxLinuxAdditions-x86.run に読み替えて実行したら、端末のボックス内で、ファイルが展開され、インストール作業の進行を伝えるコメントが続き、無事成功した様子。再起動し、端末からマウントさせると共有フォルダの内容が見られたんだった。

 …ということを思い出したわけです。そして、ネットで探していた途中で「kernelが変わるたびにやり直し」という記述を目にしたことを思い出した。「あ、後から update した、ということは kernel 変わってるじゃん!」ということで、Guest Additions をインストールするところから再開。再起動させて端末から「$ sudo mount -t ~~」を実行するとやっと共有フォルダの中が表示されるようになった。ここから起動時に自動的にマウントさせるため rc.local の書き換え(一度書き換え、また戻してあったもの)。そして、再起動させると最初から共有フォルダの中身が見えるではありませんか。

 そして、Guest Additons を行ったことで、マウスの動きやログイン時の画面サイズの異常も復旧。後から考えれば、kernel の部分ですでに状態が変わっていることに気付くべきだったのだけど、何せ勝手のほとんど分からない Linux/ubuntu 。どこで異常の有無を判断すればいいのか勘の働かせようもないのが正直な状態。7.10から数えて4ヶ月くらいかかってとりあえず安定的に使用できる状態にたどり着けた気がする。まあ、これからボチボチ覚えていきましょう。

今回特に参考になったページ
  URL=http://linuxsalad.blogspot.com/2007/08/virtualboxos.html
  URL=http://forum.ubuntulinux.jp/viewtopic.php?pid=13682

仮想化Ubuntuへの道(…まだ途上だけど…)-その2

 一方、Ubuntu では最初から VirtualBox 用のコンテナ・ファイルを公開していて、導入の敷居は VirtualPC と比べてはるかに低くなっている。ただ、最初は、VirtualBox というプログラムの仕様も分からなかったため、VirtualBox のページに行ってもどれをダウンロードすればいいのか分からなかった。私の場合、ホストが Windows XP Home Edition SP3 なので、VirtualBox 2.0.2 for Windows hosts x86 を落としてきた。次に、Ubuntu 日本語チームのページから、日本語ローカライズドVirtualBox用仮想マシンのダウンロードのページに行き、ubuntu-ja-8.04-virtualbox-i386.zip(仮想マシン本体)を落とし、解凍。 まず、VirtualBox をインストール。次に解凍した Ubuntu のボリュームを指定して VirtualBox に登録。起動させると前の時と同じく、言語やタイムゾーン、キーボードなどの初期設定をしてスタート。ネットは何もしなくても接続可能な状態になっており、IPアドレスやDNSサーバーの設定などは正常に行われている様子。音の方は最初鳴らなかったのだけど、VirtualBox の方の設定を見るとサウンドカードが初期状態では使うようになっていなかっただけで、「使う」にチェックを入れ、ドライバを選択すると無事鳴るようになった。

 そこで、次にホスト側の Windows とファイルのやりとりをするため、共有フォルダを設定しようと思った…が、ここで2日ほど苦しむことになった。これも Ubuntu や VirtualBox の仕様が把握できていなかったため経験することになった回り道ってことだった。

 まず、VirtualBox の側で共有フォルダを設定。メニューから「デバイス-共有フォルダ」とたどって、追加の+ボタンを押す。そうすると「共有フォルダの追加」というポップアップ・メニューが出てくるので「フォルダのパス」のレター・ボックス横のドロップ・ダウン・ボタンを選択。「その他」にカーソルを合わせクリックするとホスト側のフォルダ選択画面が出てくるので、共有用のフォルダを指定してOK。

 次にゲスト側の Ubuntu でそのフォルダを使えるように設定する必要があるんだけど、これが分からなかったんだな~。

 最初、VirtualPC でゲストも Windows の時みたいに、ファイル・マネージャーの類のアプリから簡単に参照できると思っていた。しかし、コンピューターを開き、ファイル・システムを開いてもどこにもホスト側のドライブへのリンクが見つからず彷徨。ネットで調べると、ゲスト側でマウントって作業が必要らしいということが分かる。ドライブとかデバイス類をマウントするっていう操作自体の意味は理解しているので、後は具体的な指定方法の検索。

 どうやら「$ sudo mount -t vboxsf SharedDirectory /media/share」というコマンドでそれが可能らしいというところまで分かった。さらに最後の「/media/share」というのは、実際にホスト側の共有フォルダの内容をゲスト側で参照するための窓のような役割をするためのフォルダで、「share」自体は任意に各自で作成したフォルダ名になるとのこと。まず、フォルダを作ることにする。

 以前、VirtualPC で格闘していたとき、システム上の設定ファイルをいじるには端末でコマンド入力が必要になるってことを知り、何度かトライしていたので、今回も迷わず端末を開き、フォルダ作成のコマンドを打ち込もうとする。…しかし、最初、うろ覚えのコマンドを打ったら「違うワイ、ボケッ」って怒られた。DOSのコマンドと似てたよな~と思って「md」って打ち込んだんだね…。確か「mkdir」だったよな~、略してもよかったよな~、というはるか昔の記憶。DOSコマンドを駆使して、自分用にランチャーになるバッチ・ファイルをよく作ったな~などという遠い思い出が蘇りました。改めてネットで Ubuntu の基本コマンドを検索して無事作成。後から気付いたのだけど、フォルダを作るくらいなら、ファイル・マネージャーで簡単にできたんでした。

 次にマウント作業。「$ sudo mount -t vboxsf SharedDirectory /media/share」の真ん中、「SharedDirectory」はホスト側のフォルダのはずなので、自分が共有させようと思っているフォルダの名前「D:\Work\Tmp」などと入力。ネットで検索したページにもあったやりとりと同じく「No such device」のエラー・メッセージ。いろいろ探しても「SharedDirectory」を入力としか書いて無くて、Ubuntu というか Linux というか、コマンド・ライン上の表記方法に DOS と違いがあるのか(例えば、区切りは/を使わないとダメとか…)知りたかったのだが、分からず。まあ、こんなもんさと思ってその日は就寝。

仮想化Ubuntuへの道(…まだ途上だけど…)-その1

 Ubuntu 8.04 をインストールしてみた。Linux はまったく触ったことがないが、関心はあった。しかし、メインのPCに入れてしまうと仕事に支障もあるので、踏み切れずにいたところ、VirtualPC や VirtualBox を使ってOS上に仮想化マシンを作り、その中で走らせることができるということを知り挑戦してみた。

 今年の6月頃に最初の挑戦を行った…。まず、VirtualPC 2007 をインストールし、当時、まだ8.04はリリース前だったので7.10を入れるべくトライしてみた。ネットで調べると、インストールの時にコマンドラインからディスプレイ関係のオプションを追加する必要があるとのことだったので同じように打ち込んでみた。しかし、ネットでも人によって追加オプションの内容が違っていて?だったが、トライ・アンド・エラーで実行。…しかし、結局は上手く行かなかった。そのうち、仮想化したボリューム本体を公開してくれている人のページにたどり着き、それをダウンロードすることで起動させるところまで到達。時々起動させて、ネットにつないだり、ゲームで上海をやってみるくらいで、本格的に使うってところまで行ってなかったが、とりあえず、勉強用の教材を確保しておくってイメージでいた。

 そのうち、8.04 がリリースされたとのことだったので、仮想化ボリュームを追加して、仮想ハードディスクをフォーマットするところからインストールしてみた。前回と違って、今回はいくつかのネットで紹介されていた追加オプションでインストール自体は完了。プログラム本体のインストール終了後、初期設定の途中でキーボードの選択がおかしくなって画面が固まってしまう状態に陥り、何度かやり直す羽目に陥ったが、画面が固まった状態でしばらく放っておいたら復帰していて、なんとか起動できる状態までたどり着くことができた。しかし、7.10と違って、サウンドが鳴らない。ネットがつながらない、でだいぶ格闘。…そもそも、Ubuntu や Linux の基本作法が分かっていないので、どこに設定情報が格納されているかも分からず、その設定の変更方法も不明。ネットを検索しながら関係のありそうなところをしらみつぶしにいじってみるしかなかった。そのうち、ネットに関しては手動で設定することで接続自体は可能になることが分かり安心。現在、我が家のネット接続は、途中に無線LANを入れた関係で、ADSLのモデム自体もルータ・モデムなのに、そこに無線LANの親機がつながっているという二重ルーター状態で、8.04ではそのうち、手前側の無線LAN親機のIPアドレスをDNSサーバーと認識しているため、名前解決ができずネットにつながらない、という状態になっていたらしい。外とつながっているADSLモデムのアドレスをDNSサーバーとして追加してやればネットを開くことができるようにはなる。しかし、設定を記憶させたつもりでも、起動のたび設定し直さねばならず、お手上げ。設定を記憶させておく方法が何かあるんだろうけど、分からず…そのうちもう少し Ubuntu を勉強したら再トライしようということにして諦めた。 また、サウンドの方も、7.10だと、VirtualPC の初期設定である SoundBlaster16 をサウンド・カードとして自動的に認識していて、何も設定しなくても音が出ていたのに、自分でインストールした8.04では認識してくれず…。これも対応の仕方が分からず断念。

 そもそも VirtualPC は Ubuntu や Linux と相性がよくない、と説明しているページも多く、最初から無理を承知でインストールしていたところがあったので、快適に使うというより、勉強のための教材という意識が強いところがあった。そういう意味では、覚悟の上の作業だったのだけど、7.10の方もアップデートを促すメッセージが出るのでアップデートしたところ、マウスを認識しなくなりバンザイ。そもそも7.10も、インストールの段階で、マウスが使えなくなるので追加オプションをこうしてああして…というコメントをあちこちで目にしていたのだけど、それがここで再度表れたってことだと理解した。そんなこんなで、VirtualPC では、今のところ、Ubuntu を勉強するところまで行くこと自体大変すぎるってことで、素直に VirtualBox を使ってみることに方針を転換した。

2008年8月24日日曜日

家庭内LAN

 先日のNEC PC-98機。もう1台のPCに使っていたCRTディスプレイと一緒にリサイクル・ショップに持ち込み、無事処分終了。本体¥100、ディスプレイ¥50×2台、外付けの1倍速CDドライブ(SCSI接続!)¥50。締めて¥250なり。収入にはならなかったが(最初から期待していないけど)、処分費用の支出を抑えられたという意味で大満足。

 今度はそのPCが置いてあった2階の空きスペースに前のメインPCを移動させ、下のPCから無線LANで接続。前のPCではネットに繋いでいなかったが、これで上からもネット閲覧が可能となった…遅ればせながら。これで子どもたちに下のメインPCを占拠される心配もなくなりちょっと安心…今までも特に支障があったわけではないが。

 2階の方は、仕事絡みで使っていたものなので、中を大々的に整理してユーザー・アカウントも新たに設定して、古い設定・ファイル類を抹消させるのに1日。ファイルを消してデフラグかけ、空きスペースを上書きさせて不要なデータが残らないように一応配慮。デフラグは Power X Perfect Disk8 を使ったのだけど4時間かかった!

 無線LANは PA-WR7870S/SE …無線LAN子機とのセット。[IEEE802.11a/b/g ]が自動切り替えで使え、便利そうなので選択。使ってみると、親機と子機の機械同士は自動的につながってくれるので手間がかからず簡単だった。本当に、途中のケーブル部分が無線になっているだけで、有線LANと変わらない使い勝手。一般的に分かりにくいだろうなと思う部分は、ステルス機能とMACアドレス・フィルタリングの意味かな。自動的につながったのでこの部分の設定も終わっているのかと思ったら、MACアドレスは入っていなかったため、手動で設定する必要があった。子機の底面に必要なデータは印刷されていたんだが、途中の「:」を省略してあったのでブラウザから入力するときに迷ってしまった。MACアドレスも、子機がつながっている2階のPCからブラウザから調べたので支障はなかったのだが、ADSLのモデム・ルーターも同じNECのATERMシリーズなのでブラウザの設定画面アドレスがかぶり、ちょっと面倒だった。IPアドレスで直接指定して各機器のデータを設定して終了。二重ルータ状態なので時々IPアドレスを指定して設定作業を行う必要があるが、滅多に必要のないことだと思うので気にしないことに…。

 回線もADSLから光に比重が移っていると言うことなので、関心がないわけではないが、まだ値段が高いかな…我が家の使用頻度に比べて。もう少し様子を見る予定。携帯とセットで光接続プランが出てきているようなのでそのうちってところかな。

 …そんなこんなで使い勝手は向上したが、新たに買った無線LANセットと液晶ディスプレイの請求がくる来月のお財布が厳しいな~(笑)。

オリンピック雑感

 野球とシンクロはメダルなしらしい。柔道の不振に始まり男子サッカー、男女バレー等々、早々と敗退が決まった競技には、マスコミで色々なコメントが雨あられと降り注いでいる様子ですね。いつものことですが…。

 割と日本で人気のある競技の場合、事前にいいだけマスコミがメダル獲得を煽って、視聴率を稼ごうって魂胆が丸見えで興ざめする。しかも訳の分からんタレントやら何やらを大人数動員して…競技の内容と関係ないところで主観的で情緒的な言動をまき散らすし…。まあ、文句言っても仕様のないことだが… お金が絡んでる仕事だからね、マスコミにとっても…。そのビジネスモデルの是非は置いておいて。

 期待されながら敗れた競技に対して「精神的にひ弱」とか「気合いが足らん!」というタイプの評価がなされ、そこからメンタル・トレーニングの重要性などが指摘されるようになってきているが、当該競技で有力とされている諸外国でも結構番狂わせが起こっていることに気付いた。男女ともバトン絡みで有力国が脱落した4×100mリレー以外にも、予選段階で思わぬ敗退を喫したケースが、今回随分気になったということ。中には土佐や野口のように怪我で…というケースもあるが、メンタルな要素が作用して思った通りの結果が得られず脱落ってケースも結構あると思うのです。金メダル当然とされていながら緊張しすぎて破れたり、決勝まで進めなかったという感じで…。そういう意味では、どの国だって、失敗する人や団体もあれば、思わぬ金星ってこともあるってわけで、お互い様、日本だけ弱いだけじゃない気もしてきました。それでもメダル獲得数でベスト10にいるだけで、随分凄いことのように思える。特に日本の場合、欧米の国々のように陸上その他の個人競技でアフリカ出身の人たちを代表とする移民した選手たちがメダルを大量に獲得してくれるって展開がほとんど無いですから。

 昨日の朝日新聞のスポーツ面のコラムで、オリンピックでの敗戦とメンタル・トレーニングについてコメントがありました。そこでは勝負弱さと形容できるような部分を今後研究・対応すれば今より競技力・勝負力が向上するのではないか、という趣旨のことが書かれていました。しかし、そもそも運動に限らず、勝負事で勝利を得るためのプロセスとは、具体的客観的な原因・結果・対策のループをどれだけ地道に取り組み続けられるかということで、言葉・表現が違うと何か新しい提案をしているように錯覚させられそうになるが、当たり前のことじゃないかと感じた。それでも試合で敗北するケースは起こる。その時も、同じ批評を繰り返すことのできる論理構造ということで、個人的にはあまり感心できないコメント。(具体的客観的というのは情緒的・希望的・願望的要素を冷静に排除して…というような意味合いですが…)

 ところで、具体的な対策ってほどではないが、狩猟民族・農耕民族の比喩に関連して…。同じ競技ごとで比べた時、全部ではないけど、一般的な傾向として日本の選手は身体の線が細く感じられた。昔から指摘されていることだが、身体の大きさだけでなくて筋肉の付き方が違う気がする。ただ、これは全部DNAだけに原因を求められることではなくて、幼少期からの食事内容などにも起因している気もする。専門家には当然その辺のところが分かっているだろうけど…。もっとも、分かっていたとしても、誰がオリンピックを初めとした国際舞台で活躍するアスリートになるか分からない段階から、食事を含めた専門対策はできないし、代表候補になる頃は身体の大半は出来上がってるはず。そこから急激に筋肉付けようとして無理すると筋肉増強剤などに頼ろうとするインセンティブが働いたり…。もっとも筋肉の話は個人的な想像に過ぎないので専門家の見解を知りたいですけどね。

 話は飛びますが、オリンピック後の中国の姿に興味が湧きます。外国の記者団は、オリンピック中の取材妨害に対して抗議声明を発表したようですが、人権、経済、軍事…どうなって行くんでしょう。

2008年7月20日日曜日

子供たちは夏休み~

 最近、忙しいっていうのとは違うのだけど、何かと時間を取られる場面が多く、落ち着いて本を読んだり、調べ物をするってことができずに過ごしている。そのせいもあって「積ん読」状態の本が減らず、ちょっと気になっている。お盆にかけて少しは時間ができると思うので、読了できる本を増やしたいものと(密かに)意欲を高めているところ…(笑)。

 今、一番気になっているのが、読みさしになっている『近代の超克』(トゥールミン/法政大学出版局)。ところで、この本は、大学時代の恩師に勧められ購入しようと思ったのだが、既に品切れ状態で購入不能の様子。初版が2001年12月27日なので、それほど古い本でもないと思ったのだけど、もともと初版の印刷部数もそれほどでなくて重版もなかったのでしょう、ほんの数年で新刊本では入手できない事態になっていたんですね。まあ、時流に乗った、万人受けするテーマでもないでしょうから、資本主義の原則からすれば当然の帰結なのでしょうが…(笑)。そもそも、この本を薦めてくれた先生自身、アカデミズムの面でも孤高を畏れず我が道を進む方ですから、先生のアンテナに響いたものが世間的にマイナーな扱いを受けているアイテムであるってのは十分納得できることではあったりします。そういう意味で驚きはしなかったのですが、でも多少残念な気持ちはありましたね(笑)…できるなら多少は世間受けしていて欲しいというような…。

 この先生のことでもう少し話題にすると、私が学生の頃で、既に壮年の域に達していらした方なので(もしかしたら今の自分と同じくらい)、随分前に定年を迎えていらしたのだけど、なおしばらくパート・タイムのような感じで学生の指導に当たられていたご様子でした。たまに電話などで話をうかがったり、ほんと稀にこちらが出張で出掛けたついでなどにお会いする機会があると、自ら営む学問の世界を何とか伝えたいと願う使命感と、それが十全に果たせていない現状に対する認識を熱意を込めて語っていらしたものです。しかし、その先生も、この春には「もう空しくなって大学に行くのは辞めた」と仰ってました。もともと、既に「職業」として生計の糧を得ることを目的として学問に携わる必要がなかったが、後進の指導に大きな意義を感じていたからこそ講義やゼミを続けていたわけで、その効果が認められない以上、続ける意味もない、ということです。今後は、自分自身の「本性」としての学問研究を続ける、と仰ってました。今年も欧州のある学会に論文を送って掲載されたり、学会で講演したりなさっているようです。(時々それら英文の論文などが送られてきて、思わず英語の「生涯学習」にいそしむことになったりします-笑)

 ドラッカーがその昔『断絶の時代』などで指摘したように、自分の仕事に「飽き」の来る中年の域に達した自分として、色々考えさせられる出来事でした。…自分も勉強せんきゃね…と奮い立たせられるって面が大きいですが。

2008年6月14日土曜日

ドラッカー『断絶の時代』

 以下、少し長くなるが引用

□(p.316~)
 多くの知識労働者は、たとえ仕事に満足していても、中年の初めには飽きてくる。定年のはるか前に、興奮、意欲、情熱を失う。学校教育の期間は延びたが、それでもまだ残された労働寿命が長すぎる。

 アメリカの自動車、鉄鋼、タイヤ産業等で明らかなように、肉体労働者が、定年をむしろ喜んで受け入れる状況を見れば、早期定年がひとつの解決策になる。肉体労働者には、暇に伴う問題はないかに見える。とくに文化的なものに関心がなくとも、時間をもてあましたりしない。フロリダに住み、小さな庭、釣り、ゴシップに時を過ごす。工場へ戻るつもりはない。

 しかし、知識労働者の定年は簡単な問題ではない。定年後は、あっという間にぼける。知識労働には習慣性がある。20年以上続けているとやめられなくなる。そのくせ同じ仕事では、情熱をもって働き続けることができない。燃え尽きる。 このことは、権力や地位のトップまで上り詰める、ごくわずかのものについては当てはまらない。トップの者は情熱をもち続け、没頭し続ける。しかし圧倒的に多くは、30歳にして聖人や修道院長になれないことを知った聖職者と同じ幻滅に襲われる。
 たとえ順調にいっても、45歳頃となれば、疲れ、気力を失い、飽きる。そのような市場調査部長や品質管理部長が大勢いる。海軍工廠にはそのような会計官がおり、陸軍には訓練担当の中佐がいる。政府機関にはエコノミストがいる。病院にはソーシャルワーカー、大学には教授がいる。
 すでに企業、政府、軍、大学では、リサイクル、再充電、リフレッシュ、国内留学が話題になっている。これは個人の問題ではない。知識労働者に共通の専門家としての自負と、昨日の熟練労働者の後継という現実の二面性がもたらす当然の帰結である。

□(p.318~)
 順調にやってきた45歳あるいは50歳といえば、心身ともに働き盛りである。その彼らが、仕事に疲れ、飽きたということは、第一の人生では行き着くところまで行ったということであり、そのことを知ったということである。
 趣味や教養では生き返れない。プロとしての仕事の味を知っているからには、素人の時間つぶしでは飽きたらない。趣味に時間を使ってもよい。とはいえ、金はもっていても、趣味を生活の中心にもってくることはできない。その気はない。仕事以外のものに生きるには、かつての貴族のように、子どもの頃から慣れていなければならない。

 ----<引用はここまで>----

 ビジネス関係の雑誌や新聞の社会面に、リタイア後の生活に関するノウハウを論じたものが多い。かつてオーディオがブームだった70~80年代に青春時代を送った団塊の世代を当て込んだような、高級オーディオの広告も急に増えてきたような気がする。そして、この世代が定年まで10年前後となった当時、定年後に向けて趣味を増やそうとか、ボランティアに触れよう…そんな記事が増え始めた気がする…単に気がつくようになっただけかもしれないが。

 それに対して、仕事こそ趣味だ、というタイプの反論もさまざまな形で目にした気がする。どれも「知識労働」にまつわってドラッカーが論じたテーマに包含されていた気がする。「仕事が趣味だ」式の人は、プロとしての知識労働を知っている人が述べていたのだろうか…。家庭菜園や釣りやその他、アウトドアを初めとした定年後の暮らし方を推奨した人たちは、肉体労働の人たちが築いてきた定年後の暮らし方文化を目にする機会が多かったか、報道される情報に接するうちに親近感を持ったような人たちだったのかもしれない。

 世界最速のスピードで進むとされる日本の少子高齢化も、出生率が危機的に低下し続けているという形で世間の常識となったのはそう古い話ではないと思うが、すでに今から半世紀近く前に、将来起こりうる事態を論じていたということに感心した。「未来を予測する」式の本は、ほとんど信用していないので、自分で手に取るということは決してないのだけど、すでに時間が経過していて、未来予測的な部分を除いてもなお何か参考になるコメントがあるだろうか?…と思って読み始めた本だったのだが、さすがに今なお高く評価する声のある人なのだと思った。シンプルなファクツをひとつひとつ積み上げながら論を進める営みは、地道な作業に見えるが、職人的な匠の技のようにも思える。そういう意味で、手法を開発し、誰でも同様な結果を得られる方向で発展する傾向のある科学という形に、ドラッカーの能力をまとめていくのは困難な気がした。もっとも、異論・反論も存在するのだろうが、素人レベルの社会科学マニアには十分参考にある本だった。

2008年6月1日日曜日

NEC PC-9821V20

 古くなったパソコンを廃棄しなければ…と思いつつもほったらかしになっていた。今日、期せずして暇ができたので着手してみた。

 まず、買い取り・引取先の点検。リサイクル・チェーン店に電話で確認すると、CRTディスプレイも含めて引き取ってくれるとのこと。当然、値段など、端から期待していないので、引き取ってくれるだけで御の字の気分。ついでに別のPCとセットで買ったCRTディスプレイも一緒に持っていくことを計画。そちらも電話のついでに訊いてみると、画面設定がボタン式のものならOKとのこと。ホッとする。そこで今度は、ハードディスクのデータ抹消を検討。

 何せ、AT互換機になる前の、NEC独自仕様の時代のPC-98シリーズのWINDOWS95。ネットでフリーの消去ソフトを探してもなかなか見つからない。特に空きスペースを抹消してくれるものを探して、いくつか試したもののインストールできないものばかり。大抵サイズが大きすぎてフロッピーには入らない。CDドライブも規格が古いものだからRWを読んでくれない。CD-Rなら読むが、たった数メガバイトのために1枚使うのももったいないので、ファイル分割ソフト(懐かしい!)を探してフロッピーで移し、何とか結合させて起動させてもインストールできないと断られるばかり。そのうちやっとPC-98用の「98DESTROY」というものを見つけてひと息つきました。しかし、これにもちょっと悩まされました。最初、SCSIで接続している外付けのHDを抹消しようと思ったのだけど、実行させる段階で反応しなくなってしまう。WIN95から作成した起動ディスクなので純粋なMS-DOSとバージョン違いで上手く行かないのかなと思って、MS-DOS6.2のインストール・ディスクを探してブートさせ、そこでFDを入れ替えて「98DSTR.EXE」を起動させてもダメ。消去条件を変更したり、SHIFTキーを押しながら入力してみたりと色々試してもやはりダメ。そのうち、試しに内蔵HDを指定してみたところ速攻でスタート!!どうも外付けに対応していないソフトだった様子。まったく疲れた。

 その後、WIN95を再インストールしておこうと思い、PC付属の再インストール・ディスクを起動。しかし、そこでも領域確保や状態変更等、疾うの昔に忘れてしまった知識を必死に思い起こしながら作業を進めることになり、やたらやり直しで時間を取られる。そして、再フォーマットも終わって再インストール、と思ったら、どういう加減が外付けの方に書き始める始末。あくまで本体を引き取ってもらうために、無駄とは思いつつも、動いていることをアピールするためのことなんで、内蔵のドライブにインストールされなければ意味がない。途中で止めて、またおかしくなっても嫌なのでとりあえず終わるまで待つことに。…その間、時間つぶしに、以前職場の同僚が貸してくれていた枝雀のDVDを鑑賞(笑)。小1時間経ってから再度トライ。今度は無事、内蔵ディスクにインストールも終わり、再起動。やれやれとセットアップをしようとすると、WINDOWS95のプロダクト・キーを入力するように促される。「え~!」と驚いて、あちこち説明書やシステムのディスク類を保管している引き出しをひっくり返すも発見できず。「もう要らんだろう」とナンバーが記されているカバーの方を捨ててしまっていたらしい。CD-ROM自体は、空ケースに保管されていたが、キーは別になっていたらしいのだ(泣)。そこで、一度諦めたのだけど、再度気を取り直して探してみたら別なとこから入手。やっとインストールを終えることができました。ほとんど半日潰れました(泣)。

 当時、起動ドライブを変更したり、独自メニューをバッチ・ファイルで作ったりと、自分なりに色々いじっていたものなのだけど、すっかり勝手が分からなくなっていて無駄に時間がかかってしまった。ほんと、昔は不便だったんだな~と改めて実感しました。なんだかんだ文句いうことが多いとはいえ、ほんと、今の機械は昔に比べて便利になっているんですね。

2008年5月18日日曜日

教育再生懇談会と民意

 ニュースによると教育再生懇談会で小中学生に携帯電話を持たせないよう提言するとのこと。最初、その話を耳にした時、なんとまあピント外れなことを!と正直に感じたのだけど、たまたま目にしたYahooのコメントでは、「ガキには早い!」といたくご同意な方々の激しい意見が上位に集中していてちょっとびっくり。それだけ強く不満や不安を感じている人が世の中には多くて、そんな空気を感じて政府はこんな提言をまとめてポイントを稼ごうとしているのか、などと感じた次第。

 最近、この手の懇談会やら審議会、委員会などなど、臨時で場当たり的に作られているものから出てくる論調は、どうも現実のfactsを踏まえて上で設計されたとは思えないようなものが多いように思え、言葉通りのポピュリズムに思えているのだが、これもそんなところなのだろうか。

 建築基準法の改正、これはこれで必要なことではあったが、羮に懲りて膾を吹くように、あまりに場当たり的に急ハンドルを切ってしまったため、肝心の建築行為自体が遅延するという逆効果が指摘されている。教員免許状の更新も、不適格教員を排除しろ、という国民の怒りを受け入れたものの、新たな予算措置もできないということで研修カリキュラムの詳細や物理的(施設的、人員的)な整合性の擦り合わせもないような形で丸投げ。実際に始まったらほとんど無給のボランティアで成り立っている部活動やその大会なんてどうするんだろう。また、研修医の位置付けから始まった医師の勤務条件の変革。他にも様々な不整合がある中で、建て増し建て増しでその場しのぎを繰り返し、結局抜本的な改革ができないままだから、とばっちりを受けて地方医療サービスが消失。裁判員制度も、国民感情と余りにもかけ離れた司法社会の慣習・常識に対する不満から導入が図られたが、開始直前になって色々と辻褄の合わない部分が指摘されるようになってきて、日本社会お得意の「総論賛成、各論反対=現状維持=先送り」状態に陥ってきているような気がする。最近目にした何かの文章では、「ぶっつぶせ!」と制度そのものを声高に全面否定するくらい。

 決してこれら声高の批判にすべて分があると考えているわけではないが、そもそも今の日本を全体としてとらえた場合、悪いと分かっているのになかなかタバコを止められない喫煙者のことを、時間を引き延ばした自殺とも形容するが、そんな状態に陥っているのだろうか。

 小中学生や高校生の携帯電話にフィルターを掛けるにしろ、通話だけに機能を限定するにしろ、犯罪には被害者だけでなく、加害者もいるわけで、片方のみいかに強力に規制したとしても効果はあまり期待できないように思えるのだが…。つまり、規制されて、その範囲内に止まっていられる気質の子供たちは、そもそも規制がなかったとしても世間を騒がせるような危険なエリアまで近づいていかない場合が多いような気がするのである。間違いなく出会い頭の衝突のような突発的な事情で被害に遭われる人もあると思うが、危険だと思わず、むしろ好奇心が旺盛で何事にも関心がある世代であるが故に、つい近づき思わぬ被害に会うケースが多そうに(自分も含めた友人たちの思春期の行動特性を思い返すと)思えるのだ。そうなると、他人が如何に本人たちを思いやって規制したとしても反発の対象としてのみ作用し、抜け道を探すであろうし、当然潜在的加害者たちは規制の網から漏れてくる羊たちに網を広げて待っているのであろう。…そんなステレオ・タイプな図式が思い浮かんだのが、最初の、なんとピント外れな!と感じた理由だったのだが、世間では、まず規制しようとする、その点で肯定的に評価しているようだ。政策なり規制なり何でも、その意図・目的と同時に成果・結果も問われなければならないと思うが、感情や心情に、その正否が大きく左右される性質の施策は、近視眼的なことが多いようにも、感じる。

 もっとも、長期的視点に立っているといえば、それで何でも許されるわけではないが。

2008年5月17日土曜日

ミル『自由論』雑感

 ミルの自由論。その書名は昔から目にしていたが、テストのために覚えておくべき政治経済分野の古典として名前を知っているだけで、大学あたりの授業か何かで課題にでもされない限り実際には読むことのないものと考えていた。でも、何かの折、本屋でたまたま目にして、その時買おうと思っていた本と関連があった(…のかもしれないのだが、忘れた…)ついでに買ってきて…これも数年間本棚で眠っておったのであった…。

 長い論考の各々について触れることは、自分の力量も物理的なスペースも越えているので避けるとして(笑)、読後感を…。それは、一言で言えば、百年、二百年経っても本質的に変わっていないんじゃないか、世の中って?というイメージ。昨今の時事論壇の主張、正論・反論問わず、それらの根拠として示される論点・論旨の原型が何度も現れてくるのである。まったく同じような主張を先日も耳にしたような錯覚にとらわれるくらい、論理がオーバーラップしている。確かに、科学的な手法や脱宗教的な論理などなど現代の学問世界の原型は19世紀にあり、時代時代の出来事でデコレートされることで新しい装いをまとって、ニューフェースよろしく、何度も登場し直してきているのだろうから、同工異曲を聴くのも当然かもしれない。まして、その時代その時代に生まれた人間には、嘘偽りなく初めて目にし耳にする話題な訳だから新しく見えるのも当然であろう。そして、歴史というもの全般を、進歩発展する現代にとって無用の長物とする風潮においては、このような事態がますます加速することは必然。、アカデミックなものでさえ、過去の蓄積を顧慮するより、無駄な装飾や回り道を削り落としてコンパクトでスマートになった教科書を要領よくマスターし、その後はできるだけ独自の言い回しを生み出してそれをテクニカル・タームとして認知させることを競うような「エコン村」の住民型の輩が増えていると言われているようだし。

 ミルは『経済学原理』も有名だが、さすがにこちらは買っていなかった。マーシャルの方は欲しいとおもったものの、気がついた時には既に新刊は絶版で、古書もそれなりの値段で断念。それは置いておいて…ミルだが、解説によるとこの『自由論』は『経済学原理』とセットの性質があるらしい。有名な賃金基金説を前提に論じている労働者に関するコメントなど、その典型であると指摘されていた。また自由放任という表現も、ミルにその起源、もしくは起源の一端があるかのような表現があるが、そうはいっても、後年、夜警国家などと揶揄されるほど、必ずしも貧しさで餓死することまで自由の当然の帰結として考えていたわけではないらしい。まあ、当たり前のことなのだけど、えてして後生、誰かが勝手にオリジナルに付け加えたコメントまで本家の責任にされがちなので、自分としては明確に区別がついたことに、この本を読み切ったことの満足感の一端があったりするわけだ。

『スーパーコンピューターを20万円で創る』

 随分、久し振りに風邪でダウンしてしまった。前日の午前中から熱が上がり始める気配がして、夕方には微熱状態に。途中、急に身体がだるくなってきて節々が痛み出したので「もしや?」とは思っていたのだけど…特にひどく咳き込んだり、はなが出たりってこともなかったので気のせいだと思いたかったし…でも、実際は着実に病状は進行。仕事がヒマだったこともあったので早退して熱を計ったら38.7℃。気休めに市販の風邪薬もどきを飲んで寝たものの、翌朝も38.0℃。気合いで出勤して仕事を…と思ったものの、多くの人と接する機会がある仕事上、他人にうつしてもまずいと思い直し病休の連絡。

 家人と一悶着した後、しぶしぶ病院へ行って帰ってきたら職場からご丁寧に「インフルエンザも流行っているので、必ず病院へ……」と留守電が…(もっとも気がつかず夕方まで放置してしまい、帰ってきた家人に指摘される始末になってしまった)。

 そうはいっても唯寝ているってことも難しいことで、本を読んで時間を潰すことに…。こんな時なのであまり頭を使わずに済みそうなものを…ということで「スーパーコンピューターを20万円で創る」(集英社新書)を読んでみる(買ってから随分本棚の肥やし状態で放置されていたもののひとつだったりする…)。

 その昔、大変面白いと思いながら連載を読んでいた「栄光なき天才たち」の原作者が本書の天文学専用コンピューター制作ドキュメンタリー作者と同一ということにちょっとびっくり。本文にもあったが、あのシリーズが単行本化され、それなりに人気を博したことは書店の棚を眺めて気がついていたが、その背後のエピソードは想像不能であった。確かに、原作者が必ずしもマンガ業界べったりであるとは限らないわけで、アルバイト的な原作者がいてもおかしくはない。もっとも、そうはいっても普通はそういうことは起こらないので、落ちても落ちても投稿し続ける粘りと、その過程で相応に筆力が向上するだけの才能に恵まれていたのであろう。そのように自らの能力を成長させていく力は、分野が違っても発揮されたようで、まったくの素人であったコンピューターにおいても新機軸を打ち立てることに成功する。まあ、半ばセミプロであった人物が、自分のことを軸に展開するストーリーな訳で、実際飽きさせることなく、最後まで読まされてしまった。

 「ゼロから1を作り出す研究」と「1を10にする研究」、「世界一の研究を成し遂げるには方法が二つある。一つは世界一頭が良くなること。もう一つは世界中で誰もやっていないことをやること」。研究者の心構えを示す語録としてたびたび登場したフレーズ。一面の真理を突いた、大変魅力的なことばではないだろうか。同工異曲のフレーズがあることは承知しているが、当事者たちの心情と置かれた状況にマッチした表現として、このドキュメンタリーに色を添えているものといえよう。そして、天文の世界を前提に開発された同じ装置が人間の遺伝子情報を元にしたタンパク質合成のシミュレーションに向けても改良されていくということを知り、さらに今後の展開に興味が惹かれる。続編を期待する次第である。

2008年5月3日土曜日

石の上にも三年

『若者はなぜ三年で辞めるのか』。遅ればせながら読んでみた。職場の休憩室には、読み終わって古くなったアエラを置いていく人がいるのだけど、それをパラパラめくって斜め読みしていた時、若者の雇用環境と勤労観などについて取り上げたページが目に止まった。『シュガー社員が会社を溶かす』とか『負け癖社員はクビにしろ』などだったかと思う。これらの中には、(化石的な表現である)新人類どころか異星人、異次元人(?)とでも呼べそうな面々のエピソードが登場するし、それらは他のところでも目にしたり耳にしたエピソードの同型異種とでも呼べそうなものが多い。そんな内容のさわりを紹介したその記事に刺激されて、紹介された本を実際に読んでみようと思ったのだが、その時、以前から話題になっていた前掲書が目に止まり、ついでに読んでみようと手に取ったのだった。


すでに同じ著者が、辞めて3年後の連中がどうなっているか、という後日譚的著書を上梓しているので時代遅れもいいところなのだが、自分が持っていた雇用環境等のイメージを整理する上では無駄ではなかったと思う。


就職超氷河期とも呼ばれた、経済の長期停滞期に日本の雇用慣行の多くが揺らいだ、ということ。それは、他にもいろんな場面で強調されてきたことだと思う。ただ、そのような変化があった部分より、今なお残存している終身雇用制的な側面と、新たに導入され始めた仕組みが馴染んでいないことに起因する社会的齟齬がポイントのように思える。新しい仕組み(米国流であれ新しい経営理論に基づくと華々しく宣伝されたものであれ)が上手くワークする、いわばフットワークの軽い会社というのは、比較的規模の小さめなケースが多いだろうことが想像される。何事も例外はあるし、程度の問題だが、それでいうと大きな企業で新しい制度が導入されると、制度的な摩擦から、とばっちりを受ける人の方が大量に発生することが予想され、結果として恩恵を受ける人よりダメージを受ける人の方が社会全体として多くなるのだろう。実力主義ってスローガンの下、行われた新しいマネージメントの実態は大義名分の立つ「首切り」に過ぎなかった面があったらしいことからもそのような傾向がありそうな気がする。これが、メリットを感じられる人の方が相対的に多かったのなら、何かにつけ取り沙汰されるような社会的不満はそれほど大きくならないだろう。社会的心理の下地として不満な気持ちを抱えている故に、年金問題でも後期高齢者医療制度問題でも政府に対する反対票が加速度的に増えていっているような気がする。多少不手際があったとしても多くの国民が前より希望の持てる施策が進められていると感じていれば、気長に成果が現れるのを待とうという雰囲気が生まれそうな気がする。


その昔、新聞の報道を読んでいる限りでは、明日にでも政府が崩壊するのではないかと言うくらい政権批判の言葉が紙面を飾っていても、いざ選挙になると与党が圧倒的に多数を占めいていた。子供の頃…まあ、冷戦がまだ激しく繰り広げられていて、国内でも左右両派の対立が国会乱闘などに結びついていた時代だけど(笑)…不思議でならなかったんだけど、いろいろ不満はありつつも、まだ政権与党の施策を許容していたんだということなのだろう。長いものに巻かれていたり、儒教的封建的な意識だけだったり、付和雷同や風見鶏だったり…と何も積極的に事態を肯定していた人ばかりがいた、とは思わないのだが、それでも現在歩いている道の延長線上から、それほど離れていない先に未来があったというイメージだろうか。


実際にアメリカ風であるかどうかは別にして、発展途上国で怨嗟の的となるグローバリゼーションは、日本の場合でも多くの場合アメリカの名前と共に広まりがちだと思うが、自己責任や実力・成果主義的人事管理の結果、それまで広く薄く多くに人々に振る舞われていた賃金が、一部に集中するようになり、その分、分け前に与れなくなった人々はお払い箱にされた、という図式は、アメリカのビジネス社会の風景とオーバーラップして見えるのは否定できない。そして、金融・証券関係の仕組みもあちらに近づいて行っているのは間違いないことだろうし、サブプライム問題で、勝ち逃げしている奴がいるのも、あちらの国らしい。もっともあちらの国の中でも逃げ遅れた奴がいるみたいだけど、ひとつの会社内の格差が、国際社会全体で繰り広げられるようになっていっているってことだろうか。理屈から行けば、当然の帰結だが…違いは結果が行き渡るまで時間がかかるって事だけか…。


話は戻って、古き良き終身雇用慣行に回帰すれば問題が解決される、なんて簡単なものではないが、シャーシの中に、最初のうちは点在していたコロニーが、時間が経つに従い拡大し、やがて接触しあうものが現れる。そのうち、互いに距離を置いて共存したり、一方が他方を侵食し呑み込んでしまうなど、さまざまな定常状態に到達し安定する…現在の状況もそんなことなんだろうか。当然、接触している最前線では戦いが繰り広げられ、多くの犠牲が生まれていたことだろう。


時流に乗ったお題目を付和雷同的に吹聴するイナゴが目に余って腹立たしい気持ちにさせられることがたびたびあるものだが、このところそんなことが当たり前な風景になって久しいな…。

2008年4月30日水曜日

ガソリン

予定通り、ガソリンの暫定(?)税率復活らしい。どうも新聞やテレビの報道ではことの本質が分かりづらい気がして仕方がない。最近思うことだし、業界を引退されたような人も言っていることだけど、報道が不偏不党だったり、取材したことをそのまま公表している、と考えるのは間違っているらしい。いろいろな目論見がその下に隠れているとか…。

今日も総理の会見の様子が報道されていたが、見ているものとしては脈絡もなく「解散という声があるがどう思うか?」式の質問が連続して??裏でいろいろな駆け引きが展開されていて、それを踏まえて新聞記者は何か言わせようとしていたのだ、と推測されたのだけど、見ようによっては、それら記者たちがそのような展開を期待して、否むしろ促す形で質問しているのか、とさえ感じられた。

日本で現在もっとも参入障壁の高い鎖国産業がマスコミだって言うが、そんな声も一理あるのかな~と感じられる図式だった。

2008年4月29日火曜日

公開?

とりあえずブログのページを開設したものの果たしてどれだけ他の人の目に触れるものなのだろうか?…という根本的な疑問に…(笑)。ググッてもヒットしないし…まあ、これも仕方ないのかもしれないが。反映されるとしても時間が掛かるのだろうし。

使っていて何だが、このbloggerってシステムがよく分からない気がする。一般的なプロバイダが設置しているようなメニューページがないみたい。つまり、同一サービス内で開設されている他のページやブログを順番に探していけるようなカテゴリー分けされたメニューという意味なんだけど。googleのブログ検索でも自分のものがヒットしないと、もしかして外に公開されていないんじゃないかって気になってしまいます。

もう少し様子を見ることにします(笑)。

2008年4月28日月曜日

『一般理論』新訳

ケインズの『一般理論』。新訳ができると聞き、勇んで岩波文庫を注文したものの、ネットを覗いていたら「読んではいけない」類の評価を目にして「!!」。その昔、東洋経済新報社の九十九訳を買って、一応、最後まで目は通したものの、良く分からなかった記憶しかなかったので、この機会に読み直してみよう…あわよくば理解が少しは進むかも…なんて淡い期待があったのだが、ちょっと萎んでしまった。まあ、読んで見なきゃわからないが、どうも当初期待していたタイプの訳し方でなかったのは事実らしい。

近年マネタリズム的な言説が世間では圧倒的で、ケインズ派は劣勢。しかし、学説史的理解であろうと昔の不勉強を少しは補えるかと(笑)、その後の半世紀にわたる学問的成果が盛り込まれ、日本語としての体裁の整った翻訳になっていることを期待していたんですよね。でも、逐語訳タイプの訳らしい。

まあ、学生が授業用のテキストとして原書とセットで利用することを想定したのかもしれない。一般の人、例えばビジネスマンなどがわざわざ原典まで読んで経済のことを考えるだろうか、というと確かに学生が使うというケースより可能性は低いかも…。

ここから先は各自の理想像の違いだったのだけど、その本自体で完結したものになって欲しかったなという気分です。最も原書の表現を離れて日本語として意味が通るように言葉を補ったりする必要なども出てくるだろうから、そうなるとコミマではないけど、二次創作的なものになってしまうか…。それはそれでまた批判されることになるでしょうね。…そういうことで、結局自分が満足するためには、自分で原書を読めってオチですね(笑)。

2008年4月27日日曜日

開設♪

…とりあえず、開設。

無事、読めるようになっているだろうか?



まずはここまで。