2008年10月13日月曜日

ポストシーズン、スタート…

 私自身は、特に野球が好きなわけではないが、日本ではスポーツ・ニュースでも野球関連のニュース量が圧倒的に多く、否が応でも野球関係の情報が耳に入ってくる。日頃、まず滅多に野球中継を視聴することもないが、たまに観ても、ずっとテレビの前に張り付いているってことはなく、途中でPCのところに行って一作業終えた頃、居間に戻って続きを観る…なんて感じ。そして、応援のやかましさと、多くの場合、「解説」という名前のおしゃべりを聞かされることが嫌で、音は消しっぱなしってことが普通。…でも、そんな風にしていると、思わず作業に時間を取られ長時間席を離れることがあると、カミさんにテレビのスイッチを切られているってこともよくある(笑)。

 アメリカのメジャー・リーグは、勝ち残っている4球団すべてに日本人がいるって事で、まだしばらく報道のタネが続きそうだし、セ・リーグは巨人の歴史的逆転劇でポスト・シーズンに入り、パ・リーグはクライマックス・シリーズで(我が地元-笑)日本ハムが1勝した。そんな中、昨日は、松坂が投げるっていうので、珍しくメジャー中継を(飛び飛びだけど)観てみた。

 以前から不思議(?)に思っていたのだけど、どうしてアメリカの選手たちは、試合中、あんなにベンチ内にツバだの口をゆすいだ水(?)だの、何かのタネの殻だのを吐き出すんだろ?観ていてどうも汚く感じるんだな~。常識や習慣の違いだろうからとやかく言うことじゃないんだけど、目にするとどうも気分が悪い。…でも、観客の応援の様子は好きだな~。企業チームや学校の代表が闘う大会で、所属企業や学校の仲間たちが団体で応援を繰り広げるっていう姿は理解できるんだけど、組織されていない、雑多なお客さんが入っているプロ野球のスタンドでも、鳴り物入りで、かつ巨大な旗などを振り回し、音頭に従って大声で一斉に叫び続けるスタイルの応援が当たり前な日本の風景は好きになれない。もっとも、これも好きずきで、そういう応援に参加することで満足できる人もいるので、とやかく言うことではないのだが、球場に行けば、自分は参加したくなくてもその大音量の声援や楽器の音に晒されるわけで、自分だけ異なった環境を得ることは不可能。もともとそれほど野球ファンてわけじゃないところへもってきて、そんなところも、球場まで足を運んで観戦しようと思わない、理由の一端かなと思う。まあ、ここだと日本ハムの試合かたまに地方に回ってくるセ・リーグ球団の試合ぐらいだから、たいした回数でもないんだけど、好きな人はよく観戦しているようで、ビール代が高い…などよく聞きますね。

 思いつくまま、脈絡のない話だけど…

 昨日は、松坂が8回まで投げたけど(アウトが取れずそこで降板だったけど)…試合展開にあまり左右されず普段から球数で交代するってのがメジャー流とよく解説される。そこで日本ならまだ投げさせるのに…残念ってニュアンスの話がつながりがちなのだけど、それは裏を返せば、投げきる=英雄…というタイプの図式を前提としたコメントってことではないだろうかと感じている。いわば、英雄・ヒーロー待望論みたいなイメージ。野球の場合、特にピッチャーだと選手本人の姿と結果を明確に照合できるので、そんなフレームワークと親和的って気がする。一方、サッカーだと、最終的にシュートした人間は一人だが、それを可能とするお膳立てに何人もの有形無形の働きかけが作用している場合がほとんど。まあ、最終局面の勝負弱さの論議はあるけど、でも「組織」として闘っていることは自明の理。したがって、野球もチームとして戦っているのだから、交代したピッチャーに余力があろうがなかろうが、その後のブルペン陣もセットで評価すべきなのだろう。それも、観戦している試合だけではなく、シリーズ全体を通した形で…。

 逆にサッカーの場合、ひとつひとつのプレイが一人の人間だけで完結しない度合いは野球よりはるかに高いにもかかわらず、特定のヒーローを(意図的に/無理してでも)作り出して報じようとする傾向が強いようにも感じる。ニュースを書く側からすれば、そのほうが書きやすいのだろうなって気はするのだけど、もう少し深みのある内容を期待したいな~と思う。他にも、優勝した選手の報道を観ると、周囲に誰か死んだ人がいないと勝てないのかなって錯覚するくらい「天国の○○さんへ…」式の話が多いような気が…。

 …これも原稿の下書きを作っただけで投稿を忘れていたら日本ハムはCSシリーズ第1ステージを勝ち抜け、レッドソックスとレイズは1勝1敗のタイになった(笑)。

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